第218回『白昼の襲撃』

明日なき矜持を銃弾に込めて

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『白昼の襲撃』
1970年:日本
監督:西村 潔


 明日なき野良犬たちが自分たちの生きざまを貫きながら、ボロ雑巾のように散っていくアメリカン・ニューシネマ的ハードボイルド作品。「お前のハートにサム・ペキンパーは宿っているか?」という問いを投げかけてくるような、直球のブロマンス×破滅の美学を突き詰めた一本だ。

 主人公は少年院上がりのチンピラ、修(黒沢年雄)。あるとき、街でナンパしたユリ子(高橋紀子)がダンサーとして勤めているゴーゴークラブに足を運ぶと、そこで修は少年院時代の弟分であった左知夫(出情児)と偶然の再会を果たす。修との再会を喜んだ左知夫は、最近手に入れたらしい拳銃を「これ、兄貴の方が似合うと思ってさ」と嬉しそうに修にプレゼントする。

 修、ユリ子、左知夫の三人は夜の街へと繰り出し、拳銃片手に刺激任せの悪さをして回った末、そのまま意気投合して三人での同居生活を始める。

 ある日、学生とイザコザを起こした修は、重傷を負わされた勢いで学生二人を撃ち殺してしまう。逃げ場を失くして途方に暮れる修と左知夫だったが、偶然通りかかったヤクザの鳴海(岸田森)に助けられ、修はほとぼりが冷めるまで鳴海の家にかくまってもらうことになる。鳴海はどうやら若かった頃の自分の姿を修に重ねたらしい。鳴海に対して恩義を感じた修は、そのまま鳴海の部下として働き始める。そしてここから、暴虐と裏切りにまみれたヤクザの世界において、元より向こう見ずな野良犬であった修の本格的な破滅への転落劇が始まってゆくこととなる……。

 不遇な青春を送った野良犬同然の若者たちが、その持て余した若さを暴力や犯罪に燃焼させながら破滅していく、アメリカン・ニューシネマ的な空気をまとった逸品であるが、ブロマンス要素も色濃く、まず修と左知夫の兄弟分としての関係性(その二人の繋がりの強さに嫉妬するユリ子)、次いで修と鳴海の兄弟分としての関係性、そしてラストで一蓮托生の血みどろ銃撃戦を繰り広げる修と左知夫とジョニー(左知夫の友人)の男三人の破滅の美学……と、ブロマンス的見せ場が多い。

 この点に関しては、「男たちの世界」において最終的に女の存在が邪魔になっていく、という露骨なホモソーシャル感覚が前面に押し出されているので、今日的に見ればいわゆる「有害な男らしさ」の部分で批判される要素も多分にあろうが、しかしながら、最終的に損得勘定をかなぐり捨てた男三人の、自分たちの矜持を示すために銃弾を撃ち尽くしボロ雑巾のように散っていくその姿が、まさに映画的カタルシスとしての本作最大の魅力になっている。

 キャラクター的な魅力としては左知夫が最も強いと言えるだろうか。彼はカミングアウトしているゲイボーイで、それゆえに修の前でもジョニーの前でも(どちらにもれっきとした女の恋人がいることもあり)、常にどこか所在なさげな切なさが付きまとうその姿が印象的だ。紋切り型の「オカマキャラ」「オネェキャラ」にはせず、終始あっけらかんとした(一般的な異性愛者の青年と大差ない)姿に描かれている点は、同性愛キャラの描き方としては割とフェアな印象を受ける。

 ユリ子から「あたしと左知夫のどっちを取るかハッキリ決めてよ!」と詰め寄られた修が、「お前のことも愛しているが、俺は左知夫をダチとして見捨てることは絶対に出来ない。だからお前と別れる」ときっぱり言い放つ様は、『手錠のままの脱獄』(1958年)を思わせる名場面である。

 こういうブロマンス表現を照れたりせず、ストレートに振り切って描いているところが実に素晴らしい。それはサム・ペキンパーやジョン・ウーやきうちかずひろや三池崇史といった監督たちの作品にも顕著に見られるが、特にこういった監督たちの(ブロマンス要素の色濃い)ハードボイルド作品を偏愛するタイプの映画ファンには、ぜひとも本作『白昼の襲撃』をお薦めしたい。損得勘定をかなぐり捨てた男と男の掛け算の中にこそ、常に最高のハードボイルドが匂い立つのだ。

 

(2022年11月17日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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