第216回『野獣死すべし/復讐のメカニック』

シャープでドライな冷酷非情のハードボイルド

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『野獣死すべし/復讐のメカニック』
1974年:日本
監督:須川栄三


 会社を倒産させられ死に追いやられた父の復讐のために、頭脳明晰で射撃の名手でもある伊達邦彦(藤岡弘)が、父を死に追いやったカネの亡者たちを一人また一人と葬ってゆくピカレスクなハードボイルド作品。冒頭で標的を事故死や強盗殺人に見せかけて殺す点は、副タイトルにもあるように、チャールズ・ブロンソン主演の『メカニック』(1972年)からの影響を思わせる。

 サスペンス要素や意外などんでん返しがあるわけでもなく、主人公がひたすら冷淡な殺人を遂行してゆく、その荒涼とした暴力の世界だけが淡々と描かれる。エモーショナルな人間ドラマの要素は徹底的に排除され、人間的な魂を喪失した悪霊のような主人公による殺しを見せることに特化した、生粋の暴力映画・犯罪映画だと言える。

 同じ須川栄三監督による前作『野獣狩り』(1973年)では、人間的な情と熱さを持つ若手刑事を演じた藤岡弘だが、本作では一転して、どこまでも冷酷非情な(人間的な心を持たない)殺人者を見事に好演している。『野獣狩り』の主人公のキャラクターはまさに藤岡弘のイメージに合った「熱さ」を有した人間臭いものであったが、『復讐のメカニック』での「冷たさ」「非情さ」に徹したサイコパス的なキャラクターがここまでぴたりとハマるとは、正直かなり意外であった。

 どちらかといえば「熱い正義漢」のイメージが強い藤岡弘が、「冷酷非情な殺人者」を演じるというこのギャップの成功は、当時『若大将』シリーズなどで爽やかな好青年のイメージが強かった加山雄三が、やはり一転して冷たい暴力の世界に生きる殺し屋を演じた『狙撃』(1968年)と同じ尺度の面白さを感じる。1959年版『野獣死すべし』(監督:須川栄三)で伊達を演じた仲代達矢や、1980年版(監督:村川透)で伊達を演じた松田優作よりも、藤岡弘の方がこの冷酷非情な殺人者・伊達役が似合うのではないかとすら思えてくる(ここはもちろん個人的な好き好きはあろうが)。

 「非道な悪党たちにハメられ、死に追いやられた父の復讐」を大義名分としながらも、伊達の言動に「人間的(感情的)な怒り」のようなものは一切見受けられず、むしろ自身の「殺しの美学」を突き詰めるための絶好の機会と捉えているようにすら見えるところに、伊達という非人間的な悪霊の恐ろしさ(体温のない暴力衝動に充ちたその精神世界の恐ろしさ)を感じる。

 伊達は自身の復讐を完遂させるためなら手段を選ばず、その標的のみならず、標的の周りにいる人間(妻・愛人・息子・娘)や自身を慕ってくる青年までをも無慈悲に利用し、用済みとなれば何の感情もなくさっさと殺す。彼はそれをいかに無駄なく的確に遂行するかだけに興味がある。

 伊達に殺される人間たちは皆等しく感情・情緒を持ち、それは伊達の父親を死に追いやった悪党たちとて同じことで、いくら悪党にも人間的弱さがある。しかし伊達には人間的な感情・情緒・心といったものがまるで見受けられない。彼はただ自身の殺しを淡々と遂行するだけだ。

 冒頭、殺しを遂行した後、伊達は車を運転しながら薄っすらと笑みを浮かべるが、そこにのみ彼の生きがいと快楽があるのだ。明確な「殺しの美学」とそれを実際に遂行する能力を持った人間的感情のない男が、ただひたすら淡々と標的に近付き殺してゆく。ほとんど無感情に、ある種のゲームのようにそれを遂行してゆくわけだが、おそらく伊達の生きる目的はそこにしかない。復讐のための標的を全て殺し終えてしまえば、彼の精神世界には全くの虚無だけしか残らないだろう。そして本作にはこの空っぽになった獣に最も相応しい形の破滅的な最期が待ち受けている。

 無感情な暴力の世界にだけ生きて来た男が、無感情な暴力によって破滅してゆく……というシンプル極まりない因果応報の物語ではあるが、それを徹底的に乾いたタイトさでもってシャープに映像化してみせた逸品だ。本作は作家性というよりは職人的気質の堅実な突き詰めによって生まれるタイプの傑作であろう。須川栄三はそういう意味での職人気質に秀でた映画監督なのではなかろうか。

 

(2022年11月4日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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