第213回『女神の継承』

人間の魂を喰い殺す 八百万(やおよろず)の魔物たち

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『女神の継承』
(ร่างทรง)
2021年:タイ、韓国
監督:バンジョン・ピサンタナクーン


 タイの田舎町で代々祈祷師を受け継ぐ家系に生まれた若い娘ミン。この家系に生まれた女たちは代々、土着的に信仰されている女神から祈祷師として選ばれると言い伝えられているが、ミンも彼女の母親も、この家系にありながら祈祷師になることを拒否し普通に暮らして来た。しかし最近になって急にミンの体調が悪化し始め、今までの彼女からは考えられないような奇行も目立つようになった。それは誰の目から見ても明らかに常軌を逸した状態だ。

 ミンのこの体調悪化と奇行はどんどんエスカレートしてゆき、いよいよ手が付けられない状態にまで追い詰められ困り果てた母は、祈祷師である妹ニム(つまりミンからすれば叔母)に助けを求めるが、ミンは祈祷師ニムの予想を遥かに上回る邪悪な存在に取り憑かれていた……。

 『エクソシスト』(1973年)に代表されるエクソシズム(悪魔祓い)映画の進化系で、タイの田舎町の土着的な信仰を取材するドキュメンタリー作品の撮影スタッフたちが、ミンの家族に密着取材を行いながら地獄の底に引きずり込まれていく様を描くフェイク・ドキュメンタリー作品である。

 まず結論から言うと、激烈に面白く激烈に恐ろしい傑作なのだが、それほど出来が良い作品だけに本当に勿体ないと思う唯一の欠点が、フェイク・ドキュメンタリーとしてはあまり上手く行っていないように思えるところだ。具体的には役者たちの演技が「演技らしい演技(劇的な演技)」に寄り過ぎていて、ドキュメント感があまり出ていないのである。

 祈祷師ニム役の役者だけはかなり「演技らしくない演技」を作り込んでいて良いのだが、それもインタビューを模したシーンでのみの話で、他の役者たちとやり取りするシーンでは、やはり相手の演技に引っ張られるのか、「演技らしい演技」をしてしまっている。はっきり言ってこれではフェイク・ドキュメンタリーとしてのリアリティーはガタ落ちだ。これは役者たちの問題というよりは演出する側の技術的な問題だろう(全体的な演出も画作りもかなり劇的な方に寄っている)。

 フェイク・ドキュメンタリーという手法をあえて選びながら、それが上手く機能していないというその一点にだけ不満はあるが、そこを除けば(ストレートな劇映画だと思って見れば)、先の読めない大残酷エクソシズム・エンターテイメントとして、文句なしの傑作である。

 何物かに取り憑かれたミンが次第に自暴自棄で暴力的な奇行に走ってゆく序盤から既に恐ろしく、ここでは霊的な恐さ以上に暴力映画としての恐さに神経を磨り減らされる。

 デパートの子供コーナーで急に幼児に退行したミンが子供たちとキャッキャ遊び始めたかと思うと、いきなり周りの子供たちを突き飛ばしたり睨みつけたりして豹変する。乗合バスの中でいきなり目の前の中年女性にビンタを食らわせる。酒びたりになって訳の分からないうわ言をボソボソと言い出す。夜な夜な、自分の職場に行きずりの男たちを連れ込んでは自暴自棄なセックスに耽り、盛りのついた野良犬のようによがり狂う(これが上司にバレて職を失う)。

 

 そしてついには突然発狂し、スタッフから奪い取ったカメラで自身の母親の頭部を何度も殴りつけ、そのまま1ヶ月以上も失踪してしまう。祈祷師ニムの力でどうにか発見されたミンはすっかり変わり果て、もうほとんど人間としての原型を留めていないレベルにまで取り憑かれてしまっていた。自分一人の力ではどうにもならないと悟ったニムは、古い知り合いの男性祈祷師と共に大掛かりな祈祷(悪魔祓いのような儀式)を行うことを決めるが、物語は最悪の事態へと突き進んでゆく。

 人知では全く理解不能な(人間からすればその意味や理由など皆無に等しい)超自然的な圧倒的暴力として怪異を描いているので、どことなくラヴクラフト作品(クトゥルフ神話)のような不条理感が本作には漂い、近年の映画ではラヴクラフト原作の『カラー・アウト・オブ・スペース −遭遇−』(2019年)と同じ方向性の残酷さ・無慈悲さを感じる。

 本作は最後の最後で、最も信仰心を持っていなければならない立場の人物が、実は(人間にとって救いとなる)神の存在を信じ切ることが出来ていなかった、という祈祷映画として最大級の冷淡な突き放しがある。祈祷師たちが邪悪なる脅威に立ち向かうエクソシズム映画でありながら、人間側の救いとなる神の存在を疑問視せざるを得ない(つまり祈祷師たちの唯一の武器である「祈り」や「信仰心」なんてものは、はなから無意味なものだったのかもしれないと思わせるような)、何とも残酷な突き放し方で、ここまでくると何だか絶望を通り越して清々しさすら覚えてしまう。

 信仰心というものも人間的な理論やルールをそこに構築していくある種の学問と言え、「この呪いに対してはこの祈りを捧げた方が効果的」とか、色々と積み重ねられてきた理論的歴史があるわけだが、そんな人間側の都合など全くお構いなしに蹂躙してくる超自然的野蛮さを、本作は徹底的に描き切る。人間の宗教観では因果応報やカルマという理論に引っ張られてしまい、「何の罪もないこの子が何でこんな酷い目に遭わされなきゃいけないの!?」と無力に泣き叫ぶばかりだが、超自然的な邪悪な存在はほとんど無作為に、ただ目の前にいる獲物を食い殺し、その魂を蹂躙するだけである。それは例えば、津波や土砂崩れが全き無慈悲に人間の命を奪い去るのと同じことなのだ。

 人間と人間の間には因果応報やカルマが介在するが、その人間の呪術によって解き放たれた超自然的な魔物たちは、ただ獣のように人間の肉体と魂を喰い尽くす。

 先述したように、フェイク・ドキュメンタリーとしての出来は、ハッキリ言って良くないと思うが、他人の不幸でありながらもスリリングな怪異の世界を見世物として覗き見る、というメタ構造的な「窃視」及び「視姦」の面白さ(その加害性の快楽と興奮を観客にも追体験させる面白さ)としては、フェイク・ドキュメンタリーである意味は大きいと言えるかもしれない。

 被写体であるミンが具合が悪くなってトイレに駆け込んだら、ドアの隙間から中の様子(さすがに個室の中ではないが)を盗み撮りしたり、目の前で暴力沙汰があっても撮影スタッフはあまり積極的には止めに入らなかったり、怪我人が出ても助ける方に回らずに撮影を続けたり、というところの厭さは、どこまで意図的な演出かは分からぬが、かなり興味深い要素ではある。

 「理性や良心よりも撮れ高を最優先する(我々観客側もそれを望んでいる)」という底意地の悪いメタ構造的な「恐いもの見たさ」の共犯感覚を容赦なく突き付けてくる点においては、フェイク・ドキュメンタリーとしての皮肉めいた旨味があるように思える。

 世界中に数多存在する『エクソシスト』の後続作品(その新たな進化形)として、ずば抜けた傑作がまた一つ現れた。本作はそう言って間違いない新鋭ホラーの重要作である。

 

(2022年7月31日)

プロフィール

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わがままコブラ
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1984年5月2日
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