第200回『世界残酷物語』

愚かで残酷で滑稽な人間たちの世界

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『世界残酷物語』
(Mondo Cane)
1962年:イタリア
監督:グァルティエロ・ヤコペッティ、パオロ・カヴァラ、フランコ・プロスペリ


 雑誌記者を経て映画界に入り、様々な大人向けの夜の娯楽を紹介する「夜もの」と呼ばれるドキュメンタリー・ジャンルの製作に携わっていたヤコペッティが、世界各国の変わった風習などを独自に撮り集めてドキュメンタリー映画として公開しようと企画した初監督作が、この『世界残酷物語』である。原題の『Mondo Cane(犬の世界)』に由来する「モンド映画」と呼ばれる一連のジャンルがここから始まり、ヤコペッティ当人の作品だけに留まらず、多くの後続作品を生んだ。

 世界各地の変わった風習や大衆文化などをコラージュ的に紡ぎながら、そこにシニカルなナレーションを乗せ(ヤコペッティ本人は「シニカルではなくアンチ・レトリックだ」とインタビューで語っているが)、「文明」と「土俗」、「洗練」と「野蛮」、「生」と「死」といった要素を対比的に映し出しながら、一見正反対に見えるそれらも根底では密接に繋がっている(もっと皮肉っぽく言えば「同じようなものだ」)という文明批評的な見解を暗に示していく。ごく大まかに言えば、これがヤコペッティ流のドキュメンタリー・スタイル(元祖モンド映画)であり、このスタイルの完成形が後の『さらばアフリカ』(1966年)だと言える。ヤコペッティはこの『さらばアフリカ』を最後にドキュメンタリー・スタイルをやめ、その後は2本の劇映画作品を残している。


 ヤコペッティのドキュメンタリー作品においては、いわゆる「ヤラセ」について語られることが多いが、これは誰が見ても確実にそう捉え得る箇所は事実点在している。

 そもそも映像でのドキュメンタリー作品というものは、あえて粗く撮ったり(編集したり)する方がかえってリアリティーが増すようなところがある実に厄介なジャンルだと思うが(この粗っぽく作ること自体が既に「作為的演出」の一つだと言えるが)、ヤコペッティの場合は逆に、ドキュメンタリー作品といえども、とにかく美しく印象深い「ドラマチックな」画作りの積み重ねを心がけている。それは時に劇映画的な「演出」に近いものがあり、そういう画作りで作品を作り込んでゆくとなれば、そこには当然、「あらかじめ仕込まれた演出」が必要不可欠となってくるだろう。

 この点について、デザイナー/映画評論家の高橋ヨシキ氏が2001年に行ったインタビュー(氏の著書『暗黒映画入門 悪魔が哀れむ歌』に収録)で、ヤコペッティ本人は以下のように答えている。

 「ヤラセと言われているシーンは、必要な場面、しかも、私が実際現場にいて、目にしたシーンのうち、その時に撮影できなかった部分を再現したもので、これについてはやましいところはまったくないし、否定したこともない。自分が現場に居合わせなかった事件をでっちあげたことは一度もない。(中略)映画の完成度を高める上でこれはまったく当たり前のことだし、私はそうした部分も含めて、物語の語り部を務めることができた。そこに何ら問題はない」

 ヤコペッティ本人のこの言い分を100%肯定的に受け入れるのはさすがに無理な話だと思うが、そもそもドキュメンタリーという手法自体、ただありのままの現実を何のフィルターもなしに記録するものではなく、そこには大なり小なり作り手の「作為的演出」が入り込む(何より「編集」をするということ自体が既に「作為的演出」そのものだ)、ということを考えれば、あとは作り手個々がそれを行使する「度合」の問題となってくる。

 これはあくまで私見だが、ヤコペッティはドキュメンタリーという手法を用いはしたが、生来的に劇映画的な語り口と映像表現が巧みな作家なのではなかろうか。ヤコペッティ本人は先に引用したインタビュー内で「自分は生まれついてのジャーナリストだ」と主張しているが、ドキュメンタリー作品を数本撮った後に劇映画を2本撮っていることも考えると(私はこの2本は未見なのでその出来の程は分からぬが)、やはり生来的にフィクショナルな表現の才能に長けた(物を語る上でのフィクション性を強く意識した)映像作家なのではないかと思えてくる。

 そんな虚実交えたヤコペッティ流ドキュメンタリーの初作である『世界残酷物語』だが、やはり最も特徴的だと思うのが、先述した「文明」と「土俗」、「洗練」と「野蛮」、「生」と「死」といったイメージを対比的に見せていきながら、一見相反するそれらも実は表裏一体である、ということをシニカルなテイストで暗に示していく独特の構成(編集)スタイルだ。

 この点では特に、牧歌的なシーンからショッキングなシーンへと急転させる緩急の演出が非常に巧みで、例えば欧米人がペットの犬専用の墓の前で涙しているシーンの直後に、食用の犬の肉を美味そうに食べるアジア人のシーンにパッと転換させることで、そこに独自の(やはりシニカルな要素を多分に含んだ)ショック・バリューを生み出す。また、ある部族の長がひたすら花嫁を太らせる土俗的な風習を紹介した直後に、現代都市で暮らす人々がダイエットに励む様子を紹介する、というシーン展開もあり、これもかなりの皮肉を利かせた「土俗」と「文明」の対比だ。

 もっと極端なところでは、「生」のイメージから「死」のイメージへ一瞬で転換させる、という演出パターンがある。様々な料理をガツガツ食べる人々を見せた直後に終末医療の場で死を待つだけの老人たちを見せたり、大通りを行き交う華やかな車の数々を見せた直後に廃車の山を見せたり、そういった極端な「落差」を絶妙のタイミングでバシッと見せつけ、これをテンポよく繰り返しながら、雑多なコラージュ映像の連続の中に文明批評的な脈絡をそれとなく浮かび上がらせてゆく。

 しかし硬い社会派作品にはせず、あくまで派手なショック・バリューと俗っぽいユーモアで観客(大衆)の好奇心を惹き付ける「見世物」に徹している点が、ヤコペッティ作品の何ともニクイ魅力だ。人間たちの「因果」や「業」のようなものまで、尽くシニカルさとユーモアで軽妙に捌いてみせる。先にも引用した2001年のインタビューにおいて、ヤコペッティは以下のように語る。

 「世の中のことは、それがいかに最悪な出来事であれ、最悪なりの理由があり、それは受け入れなくてはならない。そもそも我々の主観的な判断はいつも正しいとは限らず、何が最悪、何は最善と最初から決めてかかるのは事実の勝手な歪曲へとつながる。私のナレーションはよくシニカルだと言われるが、私に言わせればあれは皮肉ではなく、アンチ・レトリックだ。決まり文句、紋切り型の文章といったものは大嫌いだ。常識も然り。人から突っ込まれるのを恐れて、とりあえず世間的に正しいとされていることを言っておくことに何の意味があるのか」

 「文明」に属そうと「土俗」に属そうと、あるいはどんな時代のどんな国のどんな人種に生まれつこうと、人間という生き物は常に愚かで残酷で滑稽で、スケベで強欲で我が儘で、性懲りもなく間違った選択を繰り返す。これはヤコペッティ作品を通して見えてくる我々自身の姿である。

 『世界残酷物語』や『さらばアフリカ』といった作品は、我々自身の本性をそこに映し出す鏡そのものなのだ。人間が人間であることの残酷さ、滑稽さ、悲哀……ヤコペッティ作品はそれを我々に忌憚なく提示してみせ、同時に容赦なく突き付けるのだ。

 

(2022年1月5日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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