第197回『レッド・ドラゴン』(1986年)

激渋ハードボイルド・サイコ・スリラー

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『レッド・ドラゴン』
(Manhunter)
1986年:アメリカ
監督:マイケル・マン


 トマス・ハリスの小説『レッド・ドラゴン』(後に続く「ハンニバル・レクター」シリーズの初作)を原作として、マイケル・マン監督が1986年に映画化したもの。

 映画版の原題は『Manhunter』、旧邦題は『刑事グラハム/凍りついた欲望』で、後に(おそらく映画版『羊たちの沈黙』(1991年)がヒットして以降に)『レッド・ドラゴン/レクター博士の沈黙』という邦題に変えられた。さらにその後に旧邦題に戻した国内版ソフトが発売されたり、色々とややこしいが、当サイトでは1986年版『レッド・ドラゴン』として紹介する。

 2002年にはブレット・ラトナー監督により二度目の映画化もされており、こちらの邦題は『レッド・ドラゴン』(原題も『Red Dragon』)である。

 かつて、精神科医にして連続猟奇殺人犯のハンニバル・レクター(ブライアン・コックス)を逮捕したFBI捜査官ウィル・グレアム(ウィリアム・ピーターセン)は、レクター逮捕時に肉体的にも精神的にも深手を負い、何よりレクターの闇を深く覗き込んでしまった精神的ダメージが酷く、精神病院に入院した後FBIを辞め、今は妻と息子と三人で心穏やかな生活を送っている。

 しかし世間で新たに二組の家族が惨殺される事件が起こり、その手口の異常性から、犯罪心理学捜査のプロであるグレアムは再びFBIから捜査協力を求められる。最初は捜査への協力を渋るグレアムであったが、早急に犯人を逮捕せねば確実にまた次の悲惨な事件が起こるのは目に見えていることから、捜査への協力を決意する。

 彼はレクターを逮捕した時と同じように、事件現場に残されたわずかな痕跡も見逃さず、それを手がかりに犯人の行動パターンや精神的内奥を探り、まるでその思考や心情や欲望とシンクロするかのように犯人像へと迫ってゆく。他の者には決して真似出来ぬグレアムの推理力によって、FBIは着実に犯人の特定へと歩を進めて行くが、猟奇犯罪者の異常心理に踏み込み過ぎるグレアムの捜査方法が、再び彼の心を蝕み始める……。

 異常心理犯罪者の心理分析を得意とするFBI捜査官が連続猟奇殺人犯を追う、という典型的なサイコ・サスペンス/サイコ・スリラーだが、マイケル・マンがメガホンを取るとなると、そこにはやはりハードボイルド刑事映画としての渋い風味が色濃く表れる。

 主人公グレアムの活躍だけでなく、彼を中心としてテキパキと動くプロの捜査チームのシステマティックな仕事のキレの良さをスピーディーかつ丹念に描き込む様は、『ヒート』(1995年)のベテラン刑事たちの捜査を思わせ、そこに自然とハードボイルドな匂いが立ち込めるあたり、やはりマイケル・マン節が前面に押し出された作品と言える。

 本作のサイコ・サスペンス/サイコ・スリラー作品として特に着目したい点は、主人公グレアム自身が内的に抱える闇との葛藤だ。先述したとおり、グレアムの捜査方法は猟奇犯罪者の精神にシンクロして、犯罪者の目線から事件の真相に迫るというもので、これはまさに「深淵を覗き込み過ぎるがゆえに深淵からも覗き返される」危険性を大いに孕む。

 中盤、犯罪心理学にも長けているレクター(収監中)にグレアムが捜査協力を依頼するが、その中でレクターから「あんたもこちら側の人間だ(猟奇犯罪者と同じ資質を持っている)」という意味合のことを何度か揶揄っぽく言われるシーンがあるのが印象的だ。

 当然ながらグレアムはそれを否定するが、本心では明らかに自身の内奥に潜む闇を自覚し、その闇に引きずり込まれることを恐れている(レクターはグレアムが内包する闇をグレアム自身に認めさせ、それを受け入れさせたがっているように思える)。

 自身を囮に犯人を誘い込もうとするなど、捜査にのめり込むあまり、グレアムが再び心の病を発症させるのではないかと同僚が心配し声をかけるシーンでは、グレアムは「ただ証拠に基づいて捜査しているだけだ(精神的にのめり込んでいるわけではない)」と(強がりとも思える)言い訳をするが、父親を心配する息子にグレアムが正直に「レクター逮捕時に受けた心の傷が原因で精神病院に入院していた」という話を打ち明けるシーンでは、自身の弱さを(それをいちばん知られたくないであろう息子に対して)告白し、それが一種のセラピーのようになっているのが興味深い。

 つまりこのような「心を許せる他者」(グレアムにとってのいちばんのそれは妻と息子)の存在が、グレアムをレクターとは違う「こちら側の世界」に踏み止まらせているのではなかろうか。グレアムが妻や息子と睦まじくしているシーンが劇中に何度か出てくるが、これは、レクターや二組の一家を惨殺した犯人が生きる「荒涼とした内向的精神世界」と、グレアムが生きる「体温のある人間的交流世界」の間には境界線がある(その境界線の「こちら側」にグレアムが踏み止まっている)、ということを示唆しているようにも思われる。

 また、グレアムが息子と一緒にウミガメの卵を孵化させて海へ帰そうとするシーンが冒頭とラストにあり、犬などにウミガメの卵が荒らされないようにフェンスを張ったり、最終的に卵が全て無事に孵化したことを喜ぶ姿から、グレアムが確かに「こちら側」に踏み止まっている人間なのだ、ということが窺い知れる(自己以外の他の生命への共感や同情ということが、本作においてグレアムとレクターを対比的に捉える過程でとても重要な要素になってくる)。

 グレアムがレクターを逮捕出来たのはグレアムの方が頭が良かったからではないか? とレクターが皮肉めいたことを言い、それに対しグレアムが「頭の良さではあんたに到底敵わないが、あんたには狂ってるというハンデがある」と返すシーンがあり、独房の鉄格子を挟んでのこのやり取りからも、彼らの間に境界線がある(少なくともグレアムは完全にそう思っている)ことが窺える。

 グレアムは確かに自身が内包する闇を自覚しているが、それを受け入れようとは思っていない。誰よりも自身の内なる闇を恐れ、どうにか「こちら側」で踏み止まろうとしている。そのこと自体が、グレアムがレクターのような(自身の闇をありのままに受け入れて生きる)猟奇犯罪者たちとは一線を画した理性や道徳心の持ち主であることの証左でもある。

 本作は、グレアム主観の犯人探しのサスペンス的展開から始まるが、中盤からは犯人主観の人間ドラマも挟み込まれ(犯人の素顔は割と早い段階であっさり明かされる)、この犯人側のドラマ・パートが本作にさらなる奥行きを生んでいる。

 幼い子供まで含めた二組の家族を惨殺した狂人ではあるが、それを単に憎むべき猟奇殺人犯として描いているわけではなく、彼がいかに自身を「愛されない人間」だと思い込み、そこから「全ての人間から愛され、恐れられる神」になるべく異常な殺戮を繰り返しているかが丁寧に掘り下げられている(余談になるが、ブレット・ラトナー監督による2002年版『レッド・ドラゴン』では、この犯人側の人間ドラマの方がメインに近く、グレアムの内的な闇との葛藤の要素は稀薄だ)。

 荒涼とした精神世界の中で殺戮を繰り返す猟奇殺人犯が、日常生活で盲目の女性と恋愛関係に発展しそうになるくだりが味わい深く(「見られること」に対する歪んだ執着がある犯人なので、この女性が盲目であることは重要だ)、グレアムがこの犯人の心理分析を進める中で犯人に同情的になっていく過程と相まって、残酷な中にも人間性の葛藤が存在するというドラマの見せ方が秀逸だ。

 そしてラストは、グレアムが犯人の内的世界に入り込み過ぎて、幼少期に虐待されていた犯人に同情しながらも、「怪物と化した奴を元に戻すことは出来ない。奴の歪んだ幻想を俺が止めるしかない」と拳銃片手に殴り込みをかける、というマイケル・マン節全開のハードボイルドとなる。

 娯楽的なサイコ・サスペンス/サイコ・スリラーとしての分かりやすさと取っ付きやすさではブレット・ラトナー版の方が遥かに器用に作り込んでいて、多くの人に薦めるならばラトナー版だと正直に思うのだが、しかしながら、主人公が内包する闇との葛藤の掘り下げや、猟奇殺人犯の荒涼とした精神世界の描き方、そして渋いハードボイルド刑事映画としての味わいなども加味されたマイケル・マン版の「濃厚さ」は、ラトナー版にはない唯一無二の魅力である。

 サイコ・サスペンス/サイコ・スリラーを撮ってもやはり最後はハードボイルドになってしまうところがマイケル・マンの不器用さであり、同時に最大の魅力でもあろう。


 



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『レッド・ドラゴン』(Red Dragon)
2002年:アメリカ、ドイツ
監督:ブレット・ラトナー


 『レッド・ドラゴン』の二度目の映画化作品。大まかな筋はマイケル・マン版とほとんど同じだが、冒頭にグレアムによるレクター逮捕劇をしっかり描いており、グレアムとレクターの関係性の描き方はマン版よりもこちらの方が分かりやすい。が、グレアム自身が内包する闇との葛藤に関してはほとんど触れられておらず、そこはドラマ部分としては物足りなさを感じる。

 また、グレアムが追う犯人側の主観ドラマのパートはマン版よりもよりドラマチックに掘り下げられている。グレアムと犯人のラスト・バトルに至る展開も若干異なり、最後の最後では『羊たちの沈黙』(1991年)へと繋げるサービス・シーンまであって、娯楽映画としての分かりやすさ・取っ付きやすさはこちらの方がマン版より遥かに上だ。

 好き嫌いはそれぞれあろうが、出来ればマイケル・マン版とブレット・ラトナー版を両方見てみると面白いと思う。ほとんど同じ展開でありながら(台詞までほとんど同じ箇所が多い)、作り手によってここまで違う作風になるのか、という点でとても面白く見比べられる。

 



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『レッド・ドラゴン』(1981年)
トマス・ハリス 著/加賀山 卓朗 訳(ハヤカワ文庫)


 映画版二本を鑑賞した後、トマス・ハリスによる原作小説も読んでみた。あくまで映画版二本を鑑賞した延長線上での資料的興味として読んだので、ここでは小説の感想ではなく、映画版二本がこの原作を元にどのように映画化したかという点での私的な雑感を簡単に書く。

 マイケル・マン版は、まず何より原作からの「省略」と「映画的山場となる要素の選択」が非常に巧い。全体的な筋を破綻させないようにしつつ、かなりタイトに切り詰め、おそらく予算の関係などもあってか、ダラハイドの住み家の設定や終盤の展開も大分コンパクトにまとめているが、この作品としての映画的規模はこれで正解という気がする。

 また、マン版はやはりハードボイルド要素が色濃い。これはもう当然そうなるだろうというマイケル・マンらしいオリジナリティーであるし、私としてはここが何よりも好きな点だ。劇中、グレイザー弾という特殊な銃弾が出てくるが、これはてっきり銃器類へのこだわりが強いマン監督のオリジナル発想かと思いきや、ちゃんと原作にも出てくる(ブレット・ラトナー版には出てこない)。

 もう一つ、主人公グレアムの「自身の内包する闇との葛藤」を掘り下げているように思える点だが、これはマン版独自のものではなかろうか。原作版でもそういう点に触れられてはいるが、マン版ほど目立った掘り下げ方はされていないように思った。

 一方のブレット・ラトナー版は、マン版の「映画的省略」の巧みさを踏襲しつつ、同時にマン版にはない原作に忠実な要素を重視している。また、映画版『羊たちの沈黙』に直接的に繋げる(アンソニー・ホプキンスを軸にした「ハンニバル・ユニバース」に属す)一本という点を徹底している。

 映画版二本において原作から省略された部分は当然ながらかなり多いが、原作ではダラハイドの背景や過去をかなり細かく描いており、その点での言及はラトナー版の方が原作に近い(映画版二本と同じく、原作版の方でもかなり早い段階で犯人ダラハイドの顔が明らかになるのには驚いた)。

 いずれにせよ、原作小説のサイコ・サスペンス/サイコ・スリラーとしての出来がかなり良いので、映画版二本共に(それぞれタッチの違いはありながらも)、思った以上に原作に沿って(あまり極端な改変は行わずに)映画化されていると感じた。

 


 
(2021年11月23日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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