第195回『ダークマン』

人の名を捨て、闇に生きる

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『ダークマン』
(Darkman)
1990年:アメリカ
監督:サム・ライミ


 ヒーロー譚ではなく、ハマー・ホラーのようなテイストの哀しき怪物の復讐劇。一人の男が人間としてのアイデンティティーを捨て、何者でもない「ダークマン」になるまでを描く。

 人工皮膚の研究をする科学者ペイトン(リーアム・ニーソン)は、弁護士である恋人ジュリー(フランシス・マクドーマンド)が巻き込まれた悪徳な都市開発企業絡みのトラブルから、企業が雇ったギャングに襲撃され、助手を殺された上に自らも全身に大火傷を負わされ死の淵をさまよう。

 ペイトンは身元不明の重体患者として運び込まれた病院で緊急手術を受け、どうにか一命を取り留めるが、全身火傷による苦痛をなくすための特殊な手術を受けたために痛覚を失い、その影響から精神状態も不安定となって、特に怒りや暴力的な衝動を抑えることが出来なくなってしまう。

 病院を脱走したペイトンは街外れの廃工場に身を潜め、人工皮膚による変装などを駆使して、自分の人生から全てを奪った悪党たちを一人また一人と闇に葬ってゆく……。

 ヒーロー映画の体裁をとりつつも、その実は復讐心を抱えた一人の男が闇の底へと堕ちて行くノワール作品と言える。心優しい男であった主人公が、私怨のために人の道をどんどん踏み外してゆき、元々は多くの人々を救うために研究していた技術を殺人のために用いる。

 無駄のないスピーディーな展開、洗練されたカメラワークと編集、どことなくコミカルなタッチでありながらも、情け容赦なく炸裂する暴力と絶望の復讐劇。全てを奪われ、怨念の塊となった主人公の復讐に甘さは微塵もない。「復讐=皆殺し」というその何らためらいのないストレートさが素晴らしい。「高度な見世物」としての娯楽映画の粋を集めた傑作である。

 主人公ペイトンは、絶望と怒りの果てに闇の復讐人と化すが、それでも恋人ジュリーとの「美しい人生」をやり直そうと試みる。人工皮膚でかつての自分の「顔」や「手」を復元し、その「かつての自分」の姿でジュリーと束の間の「美しい人生」を再び味わうが、しかしそれはあくまで表面的な「過去の真似事」でしかない。そこにはもう本当の意味での「かつての自分」はおらず、その薄っぺらい偽りの皮膚のすぐ下には、醜く焼け落ちた底なしの闇が拡がっている。

 全ての復讐を終えたペイトンは、どうにか今の変わり果てた彼を受け止めようとするジュリーの優しさを振り払い、闇に生きることを決意し去ってゆく。

 「ペイトンは死んだ。俺は何者でもないダークマンだ」

 偽りの美しい人生を捨て闇に生きることを選ぶこの主人公のラストの姿は、ちょうど好対照と言える『ロボコップ』(1987年)の主人公のラストの姿を思い起こさせる。

 『ロボコップ』の主人公はラストで名前を訊かれ、「マーフィー」と笑顔で答える。対して『ダークマン』の主人公は、「ペイトンは死んだ。俺は何者でもないダークマンだ」と全てを捨て闇に生きる宣言をする。どちらも「名乗り上げ」でバシッとキメる素晴らしいラストだが、その意味はちょうど正反対なのだ。『ロボコップ』が喪失していた人の名(人間性=アイデンティティー)を取り戻す物語ならば、『ダークマン』は自らそれを捨て、闇に生きる選択をする男の物語である。

 「失っていたものを取り戻す」「人生をやり直す」という物語が美しいのは当然だが、創作とは同時に、全てを捨て闇に生きることを決意した人間の姿も美しく描くことが出来る。

 そういう意味で、『ダークマン』は『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』(1981年)に通ずるハードボイルド作品であるとも言える。どちらも一度は光の世界を取り戻そうとしながら、最後は闇に生きることを選ぶ男の物語だからだ。『ゴッドファーザー』(1972年)も最後にそういう選択をする男の姿を描いた物語と言えるし、その延長線上にある『新しき世界』(2013年)などもやはりそうだ。私はこういった作品に出てくる「闇と孤独の中に生きる決意をした男の姿」に弱いのである。そんな男たちには常に物悲しい美しさがあり、そこに漂う冷たい死の匂いに心惹かれるのだ。

 

(2021年11月12日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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