第188回『狂熱の季節』

セックス、暴力、ハードバップ!!

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『狂熱の季節』
1960年:日本
監督:蔵原惟繕


 『時計じかけのオレンジ』(1971年)や『バルスーズ』(1974年)よりも十年以上前に、まさかこれらに匹敵するアナーキーな青春映画が日本で作られていたとは驚きだ。

 社会や組織に従属せず、その日その日を無軌道に生きる若者の明(川地民夫)は、ある日、新聞記者の柏木(長門裕之)にハメられ、少年鑑別所へ。

 鑑別所内で意気投合した勝(郷鍈治)と二人で娑婆へと戻ってきた明は、外国人相手に体を売るユキ(千代侑子)と三人でつるんで遊び歩くようになる。海辺で柏木とその恋人の文子(松本典子)を見つけた三人は、柏木を車で轢き、文子を拉致して強姦する。

 文子は明に強姦されたことを警察へは届け出ず、何より世間体を気にする柏木もこの件をなかったことにし、以前とまるで変わらぬ態度で文子との交際を続ける。文子は柏木のこの態度に釈然とせず、「柏木にも自分と同じような汚れた体になるような目に遭わせてほしい」と明に懇願し付きまとうようになる。つまり、「自分だけ汚れた体なのはイヤだ。柏木にも同じ汚れた体になってもらわないと、同等には付き合えない」と言うのだ。

 ここから、社会的モラルの「内側」で生きる人間と「外側」で生きる人間が交わることで起こる、真っ黒い笑いの残酷悲喜劇が展開されてゆく。

 主人公の明は無軌道ではあるが、ことさら悪徳や頽廃やヤクザな生き方に美学を見出しているわけではない。言ってしまえば、ただただ自身の欲求や衝動に正直なだけなのだ。知性などまるで持たぬ子犬のような存在で、社会や組織の理論による制約を押し付けられることを何よりも嫌っているのである。彼はただハードバップ・ジャズのビートとグルーヴに身を任せる気持ち良さのためだけに生きており、あとはもう「腹減った!!」「ヤりたい!!」「ムシャクシャする!!」という欲求や衝動しか持ち合わせていない。彼の行動原理は極限までシンプルなのだ。

 しかしながら、この無軌道で知性などまるで持ち合わせていない若者にも、彼独自の文化的道徳観のようなものが備わっている点が面白い。外国人相手に体を売るユキが、明と仲の良い黒人青年ギルの誘いだけは「黒んぼは嫌いだ」と言って断る。それを見た明は「あいつイカしてんだけどなぁ」「黒んぼはジャズを作ったから偉いんだぜ」「黒んぼが作ったジャズを白んぼが盗んで、それを俺たち(日本人)が盗んだんだから最低だよ、俺たちは……」というような私見を述べる。

 また、明と勝が同じチンピラ風情でありながら、その社会性の有無に違いがあることを描き分けている点も面白く、勝とユキが男女の仲になり、今までは明と同じようにデタラメに生きて来たこの二人も、次第に自分たちの地に足の着いた生活や将来性について考えるようになる。勝は「一人でチンピラやっても生きていくには限界がある」という社会性を有した考えでヤクザの組員になることを決意し、明も誘うが、明はどこ吹く風で「そんな面倒なもんに関わりたくはない」と受け流す。

 「じゃあ、どうすんのさ、これから?」

 「どうもしねぇよ」

 「どうもしねぇって……」

 「今だってこうして歩いてんじゃねぇかよ」

 そして組織のために体を張って街中で派手なケンカを繰り広げる勝たち組員を目の当たりにした明は、「ジャズの分からねぇ奴らだ……」とボソッと吐き捨てる。明はハードバップ・ジャズの(アドリブを重視した)ビートやグルーヴをどこまでも自由でアナーキーな気持ち良さとして肉体で解釈し、実生活においても社会や組織からの制約を皮膚感覚的に嫌い、避けている。

 しかし彼自身はそんな自分の生き方を頭で理解してはおらず、しようとも思っていない。ある芸術家が明の生き様をいかにも理屈っぽく解説するくだりがあるが(この解説自体は当を得ている)、そんなことは明にとってはどうでもよいことでしかない。彼はアート的感動も全て皮膚感覚として捉えるだけだ。ある絵画展で、抽象絵画を明が勝手に逆さまにし、その逆さまになった画を見た(いかにもアート通といった)老人が「なるほどねぇ」ともっともらしく頷いているのを見て、明が「あんた、分かんの!?」と吐き捨てて去って行くシーンは何とも皮肉が利いていて面白い。

 本作は全体的に主人公・明とその他の人間たちとの対比を印象的に見せて行く作品と言える。勝以上に明と心を通わせる(ブロマンス的関係性の相手として描かれる)黒人青年ギルも、明のような獣性は持ち合わせておらず、どこまでも平和主義で温厚な人間として、やはり明とは対照的な存在として描かれている。明が暴力沙汰を起こそうとしているところを止めに入り、ムシャクシャしている明を海に連れて行って機嫌を直させるギルは、本作における唯一の良心と言えるかもしれない。

 そして明の最も対岸にいる存在として描かれるのが、柏木と文子だ。彼らは社会的モラルの「内側」に生きる社会的「善人」である。社会的制約の中においては、彼らは真っ当で清潔に見える。しかし一方でそれらは社会的に共有される「虚飾」でもある。

 彼らはその「虚飾」を守るために、時には明のような社会的モラルの「外側」に生きる獣以上に冷酷で残忍な行動に出ることもある。このようなアンビバレントな社会心理の皮肉さをドス黒い笑いで突き放しながら、最後はサラッと幕を下ろす。

 ハードに弾けるジャズのビートと、斬新で大胆なカメラワーク(さりげない会話のシーンで擬似ワンカットのようなテクニックまで用いている)、そして主演の川地民夫のギラつきとチャームさを共存させたフリーキーな色っぽさを炸裂させながら、それをどこまでも乾いたタッチで無駄なくビシッとタイトにまとめ上げた、至高の反道徳的青春映画だ。

 誰かが幸せになるのではなく、皆が地獄に落ちるような物語に今も昔も心惹かれるが、本作はそんな気持ちを隅々まで充たしてくれるような一本である。

 

(2021年8月22日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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