第175回『蜘蛛の瞳』

虚無は続くよどこまでも

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『蜘蛛の瞳』
1998年:日本
監督:黒沢 清


 まだ幼い娘を何者かに殺された新島(哀川翔)は、数年後、とうとうその犯人(寺島進)を見つけ出し(犯人とされるこの男は最後まで「人違いだ」と訴え続けるが)、三日間の拷問の末に殺害する。復讐を果たし、生きる目的を見失った新島は、底なしの虚無感の中で、ただ淡々と職場と家庭を行き来するだけの生活を送る。

 そんなある日、街で再会したかつての同級生、岩松(ダンカン)に「うちの会社に来ないか?」と誘われる。岩松が経営する小さな会社は実は殺しの下請け業者で、ある組織からの依頼で裏社会に関わる人間たちを殺すことを生業としている。実は岩松は新島がすでに殺人者になっていたことを嗅ぎ付け、自分の裏稼業に誘い込んだのだ。新島は淡々と(今までやってきた勤め人の仕事と同じように)人殺し稼業に従事する。そしていつしか組織上層部と岩松との間で板挟みになり、深い虚無を引きずったまま、血みどろの抗争劇に巻き込まれてゆく……。

 ひとくちに言えば本作は「生きる意味を見失った男たちのハードボイルド」である。男たちに限らず、新島の妻(中村久美)や岩松の情婦(佐倉萌)も含め、主要人物たちは皆どこか虚無の中を漂って生きているようで、能動的な自殺をしようとまでは思っていないものの、「もう死んじゃったって別にいいかなぁ……」というような漠とした希死念慮を抱えながら、完全に目的を失った毎日を、惰性に任せてただぼんやりと繰り返しているだけに見える。

 娘の復讐を果たし、完全に魂の抜け殻になってしまった新島だけでなく、岩松もまた殺伐とした殺し屋稼業の中で魂を擦り減らし切っており、彼の若い部下二人(梶原聡、阿部サダヲ)もまた何の目的もなく淡々と殺しの仕事に従事しているようにしか見えない(劇中、何度も執拗に繰り返される、彼ら主要キャラたちの何ら意味のない無感情な日常会話が印象的だ)。

 また、殺しの命令を下す組織の幹部(大杉漣)やボス(菅田俊)も、特に何か深い欲があるようにも見えず、ひたすら事務的で、ボスに至っては小さな化石発掘が趣味の地味な中年でしかない。

 主要キャラの誰か一人二人がというのではなく、本当に出て来るキャラ、出て来るキャラ、皆一様にアグレッシブさやバイタリティーがなく、ただ肉体と時間を持て余しながら浮世を彷徨い歩く亡霊のようにしか見えない。そしてそんな亡霊たちが徐々に破滅の方向へと歩を進めていく様を、黒沢作品特有のシュールさと体温のない暴力でもって淡々と描いている。

 本作『蜘蛛の瞳』における徹底的な虚無感の振り切り演出を前にしては、『CURE』(1997年)ですら何だか手堅い作品に思えてしまうほどだ。

 骨組みは極めてシンプルなハードボイルド作品(同時代のVシネマ作品などではよく見るタイプの抗争劇)と言えるが、登場人物たちの虚無を引きずって生きる姿と、体温のない死と暴力の世界が、スクリーンの向こう側に寒々と拡がるその様は唯一無二だ。

 アウトローたちの虚無的な彷徨を描いた作品としては、神代辰巳監督『棒の哀しみ』(1994年)や、望月六郎監督『新・悲しきヒットマン』(1995年)あたりが(時代的にも)近いかと思うが、やはり黒沢テイストは際立って異質と言える(北野武作品の雰囲気とも通ずるものはあるが)。

 本作を見ていると、実は我々のほとんどが、何の目的もなく、ただ亡霊のようにこの世を彷徨っているだけなのではないか? と思わされる恐さがある。

 そしてそんな本作の最も恐ろしいと思う点は、破滅的であるが決して破滅では終わらず、最後の最後まで主人公が虚無を引きずったまま生きて行くことになる、というところだ。残酷な復讐をしようが殺し屋稼業に従事しようが、自分が死なない限り、新島の虚無は果てしなく続く。

 新島の虚無感の発端となったはずの復讐さえ、本当に彼がそれを果たしたのかどうかがラストで曖昧になってくる(復讐を果たしたはずの相手と街中ですれ違う)。新島はもしかしたら、娘が殺される遥か前から、その内側に底なしの虚無を孕みながら生きていたのかもしれない。

 死ぬことすら出来ずに彷徨い続ける亡霊の姿を描いたハードボイルド作品として、数ある黒沢作品の中でも群を抜いて素晴らしい一本である。

 

(2020年11月30日)

プロフィール

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わがままコブラ
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1984年5月2日
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