第174回『ブルータル・ジャスティス』

やさぐれ刑事純情派

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『ブルータル・ジャスティス』
(Dragged Across Concrete)
2018年:カナダ、イギリス、アメリカ
監督:S・クレイグ・ザラー


 監督デビュー作『トマホーク/ガンマンvs食人族』(2015年)では西部劇と食人映画を掛け合わせ、続く『デンジャラス・プリズン/牢獄の処刑人』(2017年)ではディープな監獄ものを現代の時代設定の中に再構築するなど、常にマニアックなジャンル映画の枠組を選びつつ、その中で、独自の暴力世界と普遍的な人間ドラマを不思議なバランス感覚で描いてきたS・クレイグ・ザラー監督。3作目にあたる本作『ブルータル・ジャスティス』では、1970年代的なハードボイルド・テイストの悪徳刑事ものという実に渋い路線で攻めてきた。そしてこれがめっぽう面白い。

 検挙率は高いが出世とは無縁のやさぐれベテラン刑事ブレット(メル・ギブソン)と、年の離れた相棒トニー(ヴィンス・ヴォーン)は、日頃からの横暴な捜査方法が仇となり、6週間の停職を食らってしまう。ただでさえ安月給の彼らにとってはまさに死活問題だ。

 ブレットの妻は持病のために常に薬が要るし、年頃の娘の安全を考え、今住む治安の悪い地区から引っ越すための費用も要る。トニーは結婚を前提に付き合っている恋人がいるが、こんな将来性の不安定な状況ではなかなか結婚にも踏み切れない。

 「俺たちはこれだけ日夜駆けずり回ってバカな犯罪者どもをしょっぴいてるってのに、その働きに見合った給料を得られてない。こんなのは間違ってる」

 追い詰められたブレットは、あるドラッグの売人に目を付け、その取引後を襲ってドラッグの売上金を強奪しようと思い立つ。すっかりやさぐれたブレットに比べればまだ良心的なトニーは、最初こそ渋りつつも、結局この計画に乗ることに。そして2人はこの危険な強奪計画の果てに、思いもよらぬ金塊強盗事件に巻き込まれ、破滅の坂道を真っ逆さまに転げ落ちていくことになる……。

 ストーリー自体は至ってシンプルで、謎が謎を呼ぶようなサスペンス要素もなければ、アッと驚くようなどんでん返しがあるわけでもない。手頃な娯楽犯罪映画にするなら90分でまとまるような内容だろう。しかしザラー監督はこれを159分という長尺でじっくりと練り上げた。

 前2作でもその傾向は顕著であったが、ザラー監督はやたらと冗長なストーリー運びにこだわる。しかしこれが作品の質を落としているかといえばそんなことはなく、どこまでも淡々と、そしてまったりとした時間の流れの中で、突発的に起こる血みどろの暴力描写と、家族愛などの普遍的な人間ドラマが、何とも不思議なバランス感覚で混じり合い、その全体を覆う乾いたユーモアが最後まで飽きさせない。小説家でもあるザラー監督は、映画の脚本も小説のように丹念に書き上げ、本編にもその細密なテイストをそのまま活かすのだそうだ。あの独自性の強い冗長さはそうやって生まれる。

 前2作では、西部劇×食人映画、あるいはディープな監獄ものといった、その設定自体のマニアックさもさることながら、先述した冗長さにもどこかマニアックなアクやクセが滲み出ている印象があり、それはそれで作り手の個性としての味わい深さでもあるのだが、『ブルータル・ジャスティス』ではその冗長さをブラッシュアップし、(おかしな言い方だが)冗長さ自体がよりタイトに練り上げられた印象を受ける。これほどまでに冗長な語り口でありながら、ダレ場というものを微塵も感じさせない濃密さは、脚本の時点での作り込みの賜物と言えるだろう。

 また、前2作同様、本作においても突発的で一切容赦のない暴力描写は健在だが、ホラー映画のようなゴア描写にこだわっていた前2作に比べ、本作では暴力表現もよりタイトにブラッシュアップされた印象が強い。単に突発的で容赦のない暴力演出というだけでなく、ハードボイルドな犯罪劇としての渋さや非情さに寄せた洗練というものを強く感じさせる。

 冗長な語り口×突発的で容赦のない暴力表現というスタイルは一貫していながら、『ブルータル・ジャスティス』は、前2作で培ってきた作り手としての技術や感性をより進化(あるいは深化)させた成果が顕著に表れた作品と言って間違いないだろう。

 そんなザラー作品の(現時点での)最良の進化形と言える本作だが、前2作以上に印象深い点として、やはり主演のメル・ギブソンの存在も大きい。60歳を過ぎたメル・ギブソンの絶妙に渋く枯れた風格、哀愁を帯びた存在感が、この作品のハードボイルド映画としての質を底上げしている。

 出世とは無縁のやさぐれ狼として生きて来たが、そんな生き方も段々と通じなくなってくる年頃。人並みに妻子もあり、守るべき生活もある。そんな中で、自業自得とはいえ人生に追い詰められ、明らかに間違った道を選びながらも、最後まで自分のルールを貫きながら破滅の道を突き進んでゆく……そんな男の姿に何とも言えぬ渋さと意地を感じる。そしてそこがまさにハードボイルド然としたかっこよさでありながら、同時にミドルエイジ・クライシスとしての哀れさでもある。

 1970年代にはこういった「やさぐれた男たちの末路」を描く映画が多かったが、本作も明らかに70年代のハードボイルド・テイストを意識している。そしてこのテイストに、渋く枯れたメル・ギブソンが見事にハマった。これ以上のキャスティングはないだろう。

 70年代的という点では、本作で使われている楽曲の数々は、元々ミュージシャンでもあるザラー監督によるオリジナルであるが、これがまた見事に70年代的な(厳密に言うと60年代末期~80年代初頭のような)サウンドを思わせるソウルやジャズの目白押しで、何ともたまらない渋さがある。

 しかしいくら本作が70年代的な雰囲気をフィーチャーしているからといって、単に懐古趣味的な作品かといえばそんなことはなく、不良刑事のブレットやトニー、あるいは金塊強盗の主犯格たちはあくまで旧体制的な古いタイプの大人として描かれており、その無自覚な差別意識や手荒過ぎる仕事ぶりは、劇中でも明らかに時代錯誤なものとして捉えられている。

 実は本作の実質的な主人公と言えるのは、ブレットやトニーではなく、金塊強盗の下っ端として雇われる貧困層のチンピラ、ヘンリー(トリ―・キトルズ)だ。本作はヘンリーのプライベートなシーンから始まり、終わりもまた彼のプライベートなシーンで幕を閉じる。

 ヘンリーと彼の親友ビスケット(マイケル・ジェイ・ホワイト)は、金塊強盗の下っ端(運転手など)として主犯格たちに雇われる。本作の中で、この2人の視点が(少なくともメインキャラたちの中では)唯一現代的なものと言える。そして先述したとおり、実はヘンリーが(狂言回わし的な立ち位置としての)実質的な主人公なのだ。

 ヘンリーやビスケットの視点から見る不良刑事や金塊強盗の主犯格たちは、完全に旧体制的な「古臭い価値観で生きる大人」そのものと言える。

 不良刑事からも強盗団の主犯格たちからも、ヘンリーは「言葉遣いがなってない」と説教されるが、それに対してヘンリーが「意味は通じてるんだから別にいいじゃないか」と屁理屈で返すところが面白い(法や倫理の壁を平気で乗り越えてしまうような大人たちが、いちいちチンピラの言葉遣いを正そうとするその姿に、何とも言えぬ滑稽さと皮肉を感じる)。

 ヘンリーとビスケットは、見た目こそいかにも「サグい」ギャングスタ風情だが、90年代のストリート・ギャング映画でよく見るような、暴力全開のイケイケなギャングスタというわけではない。刑務所に入ったりはしているが、どこか「マイルド・ヤンキー」的な優男という感じで、生活のために犯罪に手を出しはするものの、古参の不良刑事や凶悪な金塊強盗団の主犯格たちとは違い、過度な暴力を嫌い、どこかユルい自由さを担保しながら生きているようなところがある。

 本作は70年代的ハードボイルドの破滅の美学を描きながらも、一方で、旧体制的な中高年たちからそのちょっと下の世代への世代交代を、一つの犯罪劇を通して描いているとも言える。

 ドン・ジョンソンやウド・キアが演じる警察や犯罪組織の上層部たちは、今は皆すっかり落ち着いて(手荒な現場仕事をせずともよいポストに就いて)おり、彼らと同世代であるブレットも本来であればそうなるべきなのだが、時代の流れに合わせることや政治的立ち回りに徹することが出来ない不器用なやさぐれ刑事は、時代の狭間で破滅的な方向へ自らを追い込むしかなくなってしまう。

 ブレット(古い世代)とヘンリー(現行の時代性に生きるもう少し若い世代)の対比的な描き方で特に印象的だったのは、ブレットが妻子と一緒に動物番組の中のライオンの姿をぼんやりと眺めているのに対し、ヘンリーは弟と一緒にライオンを狩るビデオゲームをプレイしている、という描き分け方。いくら荒くれ者のブレットも、もはや「守りに入らざるを得ない」年頃であって、対して、ヘンリーがいくらマイルドな小悪党でも、そこは追われる者ではなく追う者(狩る側)としての「これからの世代」なのだろう、ということがよく伝わってくる(ブレットの相棒トニーはその中間の世代感覚の持ち主と言え、荒っぽさとマイルドさの両方を兼ね備えている印象がある)。

 70年代的ハードボイルドの雰囲気、突発的で容赦ない暴力描写(善悪の差異や良心の有無に関係なく無差別に人が殺されていく非情さ)、そして移ろいゆく時代に取り残された老犬の哀愁……久々に自分のハートにどストライクなハードボイルド映画を見た。

 血みどろのB級犯罪映画の枠を成しつつ、そこに深みある普遍的ドラマをじっくりと時間をかけて展開させてゆく、という実に丁寧に作り込まれた傑作だ。

 何もかもがスピーディーに、そして情報過多に処理されていく時代にあって、娯楽映画全般においてもまたそのような傾向が顕著になってきているように思うが、そんな中で、本作『ブルータル・ジャスティス』が、ストーリー運びにたっぷりと時間をかけた上で、なおかつ「引き算の美学」を追求する、という独自の方向性を示してみせた意義は大きい。ザラー監督が今後またどのように進化し、どのようなタイプの作品を世に送り出してくるのか、大いに楽しみである。

 

(2020年9月1日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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