第172回『アルカトラズからの脱出』

脱獄という名の運命への反逆

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『アルカトラズからの脱出』
(Escape from Alcatraz)
1979年:アメリカ
監督:ドン・シーゲル


 脱獄映画が好きである。『手錠のままの脱獄』(1958年)、『穴』(1960年)、『大脱走』(1963年)、『暴力脱獄』(1967年)、『パピヨン』(1973年)、『脱獄広島殺人囚』(1974年)、『勝利への脱出』(1981年)……もう少し広い意味で「脱獄」映画と言えるものだと、『大人は判ってくれない』(1959年)や『エスケープ・フロム・L.A.』(1996年)なんかもイイ。

 映画の中で脱獄するのは囚人や捕虜たちだが、彼らが脱獄する姿に毎度胸を打たれるのは、我々の誰もが社会や生活や人生という名の監獄に生きる囚人だ、とそう思うからである。別に刑務所へ入らずとも、ただ凡庸に暮らしているだけで、我々は常日頃からあらゆる重圧やしがらみに囚われて生きている。そういう意味で、この世はいわば巨大な監獄なのだ。

 生きていて何の窮屈さも感じないという人がいたら、それはよほどの幸せ者か、あるいはよほど神経が鈍いのだろう。「仕事も生活も放り出して、どこか遠くへ行ってしまいたい……」という感覚は、程度の差こそあれ、誰しも一度は抱くであろう普遍的な願望と言えるのではないだろうか。脱獄映画はまさにそんな普遍的な逃避願望を強く刺激するジャンルの一つだ。

 今まで見た脱獄映画の中で最高峰だと思うのはジャック・ベッケル監督の『穴』。実話ベースで、感情を煽るようなドラマ性もなければ、ヒネりの利いたサスペンス的な要素もない。囚人数名が脱獄を計画し決行する様を、乾いたタッチで淡々と描く。脱獄作業はひたすら地味な忍耐作業だが、いつ看守に見つかるかもしれないという緊張感を張り巡らせ、一級の娯楽作品に仕上げている。

 ドン・シーゲル監督×クリント・イーストウッド主演の名コンビによる本作『アルカトラズからの脱出』も、おそらくこの『穴』を意識して作られたのではないかと思わせる傑作だ。『穴』同様、囚人数名が脱獄を計画し決行する様を、乾いたタッチで淡々と見せてゆく実話ベースの作品で、そのひたすら地味な脱獄作業を絶妙な緊張感で演出している点もまた『穴』に酷似しているが、しかしそこに渋い男臭さをそこはかとなく匂わせるあたり、シーゲル作品らしさが滲み出ている。

 特に主人公フランク(クリント・イーストウッド)と黒人グループのリーダーであるイングリッシュ(ポール・ベンジャミン)の間に匂い立つ、絶妙な距離感のブロマンス感覚は本当に素晴らしい。イングリッシュは直接的には脱獄計画に関わらないが、何となく気が合うフランクのことを、日頃から何かと助けてくれる。いよいよ脱獄決行という日に、フランクとイングリッシュが実に渋く別れの挨拶を交わすシーンには胸が熱くなる。本当にさりげないシーンなのだが味がある。派手なドラマ要素は一切ないが、男たちの渋い関係性の描き方には、シーゲル監督独自のロマンチシズムを感じる。このブロマンス的なロマンチシズムだけは、ベッケル監督の『穴』にはない要素だ。

 脱獄の話と平行して、主人公が他の囚人に命を狙われたり、生き甲斐であった絵を描くことを禁じられた囚人が発狂し自らの指を切り落としたり、という刑務所生活の中での残酷さも描かれる。こんなところからは誰だって脱獄したくなる、と見ているこっちも思うわけだが、ここで面白いのが、脱獄実行の当日、計画に参加したメンバーの一人が急に怖気づいて脱獄をためらってしまう場面。

 目の前に自由になれるチャンスがありながらも、そのチャンスを掴むことをためらってしまうこの感覚は、本作における最もリアルなシーンの一つだと思う。先述したとおり、「仕事も生活も放り出して、どこか遠くへ行ってしまいたい……」という感覚は、この世という監獄で生きる我々の多くが抱き得るものだと思うが、しかしいざそのチャンスが目の前に到来したとき、実際に今の生活を完全に捨てて逃げ出す勇気というものは、おそらく我々の多くが持ち得ないのではなかろうか。

 そういう意味でも、やはり脱獄映画の中で最後まで諦めずに脱獄をしてみせようと奮闘する人間たちの姿には胸を打たれるのだ。閉塞的な環境の中で、個としての自由と尊厳性を奪われた人間が、その支配的な壁を打ち破って自由と尊厳性を取り戻そうと抵抗する姿は、大仰な言い方かもしれないが、運命への反逆者としての美しさを感じさせる。

 「脱獄した後どうする」とかそういうことではなく、ただただ「今の支配された環境から脱獄してみせるんだ」という脱獄者たちのそのひたむきな姿に、脱獄映画というものの最大の魅力と感動がある。脱獄が成功しても失敗しても、あるいはハッピーエンドでもバッドエンドでも、とにかく「絶対にこんなところから出てやる!!」という人間たちのその姿と行動に胸を打たれるのだ。

 刑務所を舞台にした映画でなくとも、例えば『ブレードランナー』(1982年)のロイ・バティーの姿や、あるいはそのロイに感化されて「今の生活」や「権威的な支配」からエスケープしようと踏み出すデッカードの姿に胸を打たれるのも、同じ理由からである。

 そのような広義的な意味で言えば、『華氏451』(1966年)、『THX-1138』(1968年)、『1984』(1984年)、『スノーピアサー』(2013年)といった、ディストピア社会からのエスケープを描いた映画もまた立派な「脱獄映画」なのだ。

 このような意味での脱獄映画の中で描かれる脱獄は、決してネガティブな「逃げ」ではない。むしろアグレッシブな「反逆」行為である。個としての自由と尊厳性を手に入れようと必至で抵抗する人間の、バイタリティー溢れる美しさがそこにはある。

 我々が生きる「巨大な監獄」であるこの世の中、あるいはこの人生、この生活から脱獄することは、実際問題、不可能かもしれないが、今自分がこうして生きている日常の、その「外側」の世界を想像してみるのは決して無駄なことではないだろう。脱獄映画の名作たちは、まさにそういった「外側」の世界へ意識を向けることの重要性を我々に気付かせてくれるのだ。

 

(2020年8月30日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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