第171回『CURE』(1997年)

抑圧された現代人たちが迷い込む「癒し」の迷宮

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『CURE』
1997年:日本
監督:黒沢 清


 現代社会では誰しも必ず、何かしらのストレスを抱えて生きている。もしかしたらそれは当人の自覚している以上に大きいもので、それを発散させる術も場所も機会もないまま、気付かぬうちに当人の内側でどんどん膨張し続けているかもしれない。やがてその蓄積が心を蝕み、「死にたい」という希死念慮を持つに至ることも少なくないだろうし、おそらくはそれと同じくらい、「腹の立つ相手を殺してやりたい」という殺意も、実は多くの現代人が日常生活の中で抱えているかもしれない。そしてそんなとき、その殺意を解放させてくれる「救世主」が、もし目の前に現れたら……。


 冒頭、被害者の首筋をX字に切り裂くという殺人事件が短期間に何件も発生する。それぞれの事件の加害者にも被害者にも何の共通点もない。この非常に厄介な事件を追う主人公の刑事・高部(役所広司)は、日々凄惨な事件現場を駆けずり回る一方で、精神を病んだ妻との不安定な家庭生活にも気が休まらず、見るからに神経をすり減らし、疲れ切っている。高部は、心理学者の友人・佐久間(うじきつよし)の協力を得ながら事件を追う中で、間宮(萩原聖人)という一人の容疑者にたどり着く。間宮はどうやら、催眠誘導によって人を殺人者に仕立て上げていたらしい。


 間宮は、その人間が無意識裡に抱えている「社会的関係性(人間関係)の中での抑圧に対する不安や怒り」を催眠誘導によって解放させ、その抑圧の対象を殺させることで「治癒」に至らせる(と少なくとも間宮自身はそう思っている)、いわば邪悪な心理カウンセラーだ。

 間宮当人の口からその「動機」は一切語られないが、彼はおそらく心理学や精神医学の研究に没頭する中で、催眠誘導殺人による「治療」のアイディアにたどり着き、その実地試験を、自らが街へ出て様々なタイプの人間に対して行っていたのではなかろうか(過去にも日本で同じような催眠療法を行っていた者がいたらしい、という資料映像を佐久間が見つけ出し、高部に見せる)。


 どうにかして間宮に法による裁きを受けさせようとする高部だが、精神を病んだ妻との家庭生活のことを間宮に知られ、高部も次第に間宮の「治療」対象として、彼の邪悪な世界に引きずり込まれてゆく。高部と間宮のファーストコンタクトのシーンをよく見ると、実はその時点で既に、高部が間宮の催眠誘導に引き込まれているのが分かる。また、間宮が過去に住んでいた部屋を高部が訪れた直後、高部の脳裏に謎のフラッシュバック映像がよぎる場面があるが、あれもおそらく、高部が既に間宮の催眠誘導に引き込まれていることを暗示したシーンではなかろうか。


 終盤、外界から閉ざされた一室で、間宮と一対一で対峙した高部は、そこでまんまと間宮のペースに引き込まれ、日常(仕事や妻との家庭生活)の中で溜め込んできた本音(怒りや不満)を全て吐き出してしまう。間宮と対決していたつもりが、ものの見事に間宮に「治療」され始めてしまう。

 そればかりか、高部は他の「患者」にはなかった、間宮の話を(間宮が自分にしたのと同じように)聞き出そうとする、という行動に出る。これを見た間宮は、おそらく高部がただの「患者」で終わらず、自分の「継承者」になる可能性があると見て、「生まれ変われ、俺みたいに」と誘い込むように高部に促す。
高部自身は間宮を受け入れているつもりはないが、間宮からすれば高部は自分と同類の性質を持った人間であり、「あんたは他のやつとは違って、俺の話をちゃんと理解している」と言い、高部を自分の領域へ取り込もうとする。

 そして実際、高部はどんどん間宮の邪悪な精神世界に取り込まれてゆく。


 この映画のラストへかけての「答え」は劇中ではハッキリと示されないので、あくまで推測の域を出ないが、終盤でおそらく高部は、自身の生活の「重荷」であった妻の喉をX字に切り裂いて殺している(ハッキリとそういうシーンがあるわけではない)。

 つまりここで間宮の高部に対しての「治療」は完遂された。中盤、仕事にも家庭生活にも疲れ切った高部は、ファミレスでの食事をほとんど残しているが、ラストでは同じファミレスできちんと食事を完食し、実に美味そうに食後の一服を吸う。表情はすっかりリラックスしている。間宮の「治療」によって、高部は日常の抑圧から解放されたのだ。


 そしてそれだけでなく、高部は間宮の「継承者」として(おそらく自分で気付かないうちに)覚醒している。あの唐突な謎めいたラストは、高部が普段からよく行くファミレスのウェイトレスに対して、(無意識的に)「治療」を施してしまった結果なのかもしれない。


 間宮はいとも容易に他者の心理を操り、催眠誘導によって殺人者に仕立て上げる。間宮にとってはそれが現代社会の中で抑圧されて生きる「患者」たちに対する「治療」であり「癒し」であるが、ここで面白いのが、高部の友人の心理学者である佐久間だ。結果的には彼もまた間宮の邪悪な「治療」の対象になってしまうのだが、その筋の専門家である佐久間は、おそらく完全に取り込まれる一歩手前で先回りし、自分に手錠をかけ、部屋から出られないようにした。佐久間は催眠誘導による「殺意」を自分自身に向けることで、どうにか殺人者にならずに済んだと言える。


 そしてその佐久間の解釈によれば、間宮は催眠誘導殺人による「治療法」を世に広めるための「伝道師」である、ということだが、そうであればやはり、そこには「継承者」も必要になり、そこで間宮に「継承者」としての才を見出されたのが高部だった、という解釈が成り立つ。


 本作は謎多きサイコ・サスペンスでありながら、「現代の抑圧的な社会の中で、誰もが日常的に抱えているストレス」という実に普遍的なものを丁寧に描き出している作品とも言える。クリーニング屋で独り言をブツブツ言いながらキレている中年サラリーマンの描写は、決して奇妙な風景などではなく、現代のストレス社会における普遍的な恐ろしさを描いたシーンだ。つまり誰もが内側にああいったストレスからくる怒りや不安を溜め込んでいる、ということを描いており、結果的には主人公の高部も、あのクリーニング屋の中年サラリーマンと同じ穴の狢である、ということが分かる。

 本作で間宮に殺人者にされてしまう人たちは、誰も狂人や犯罪者ではないし、おそらく歪んだ性癖や願望の持ち主でもない。高部も含め、皆ごくごく普通の勤め人タイプだ。「仕事や家庭にたくさんのストレスを抱えながら、それを表に出さないように痩せ我慢しながら生きている人たち」とも言える。そんな人たちが、間宮の「話聞くよ?」という誘いに簡単に心を持って行かれてしまう。

 中でも特に興味深いのは、洞口依子演じる女医のシーンだ。彼女もまた間宮の「治療」対象にされてしまう一人だが、男社会の中で「女のくせに」と言われ続けてきた(「女」というだけで常に下に見られ、あるいはいやらしい目で見られ続けて来た)ことへの不安や怒りを、普段は表に出さないようにしてきたであろうそれを、間宮に尽く掘り起こされてしまう。

 表向きはクールで、人前ではあまり愚痴も言わなそうなタイプのこの女性も、実は日常生活(日本特有の男社会の抑圧)の中でかなりのストレスを溜め込んでいた、ということを、短いやり取りの中で間宮は敏感に嗅ぎ取ったのだ。間宮がどういうふうに相手の心の隙間に入り込んでいくのか、ということがよく分かるシーンである。


 主人公の高部は、本作の中で他の誰よりも多重なストレスを抱え込んでいるが、それを表には微塵も出さずに溜め込んでしまうような、生真面目過ぎて自分を追い込みやすい性格であるために、その負のポテンシャルをまんまと間宮に利用されてしまった、という印象がある。高部のその生真面目さの反対側への振り幅(反動)として有している邪悪さ(社会的制約を一気に飛び越えられる暴力性)を間宮に目ざとく見出され、結果的に間宮の「継承者」にされてしまった、とも思える。

 見ようによっては、間宮が人の心の隙間に入り込むのが異常に巧いということの恐ろしさ以上に、現代人の多くが日常生活の中で過度なストレスを抱え込んでいて、常に「癒してくれる人」を無意識裡に渇望しているということの方が恐ろしいようにも思えてくる。

 ストレスを抱えた現代人の心の隙間に入り込んでくる「脅威」という意味で、同じ黒沢清監督作『クリーピー/偽りの隣人』(2016年)に出てくる西野(香川照之)というキャラも、『CURE』の間宮に通ずる恐ろしさがあるので、両作を見比べてみるのも面白いかと思う。

 
また、社会の中で抑圧されて生きている人間に、その抑圧の対象(加害者)である者を殺させ、抑圧から解放させる、というテーマを描いた作品として、白石晃士監督の『殺人ワークショップ』(2014年)が非常に『CURE』に近い作品と言えるので、こちらも併せてお薦めしたい。


 げに恐ろしきは現代人のストレスである。過度なストレスを抱え込んだまま、そのことに気付かずにいると、人の心は無意識的に邪悪な「癒し」を求め始めてしまうのかもしれない。

 

(2020年8月19日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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