第164回『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』

雑にしか生きられぬ人生のどうしようもなさ

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『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』
Der Goldene Handschuh
2019年:ドイツ、フランス
監督:ファティ・アキン


 1970年代のドイツで、5年間に4人の女性を殺害した実在の殺人鬼、フリッツ・ホンカの犯行と堕落した日常を描く実録犯罪映画。実際の事件の詳細を知らぬので、本作がどこまで史実に沿った作品かは分からぬが、ドラマチックな抒情性は極力排除されており、社会のあぶれ者であるホンカがひたすら飲んだくれの堕落生活を送りながら、彼と同じように社会からあぶれて生きる年老いた女性たちを家に連れ込み惨殺する様を、即物的とも言えるタッチで淡々と描いてゆく。

 殺人描写・暴力描写は生々しい厭さに満ちているが、刃物が肉体に突き刺さったり血が噴き出したりするような直接的な描写は巧みに避けており、抑制を利かせた間接表現で観客の想像に委ねる演出スタイルを貫いている。血糊の量や内臓露出などのグロテスクさで攻めるのではなく、殺す側・殺される側双方の生々しい息遣いや汚ならしい怒号、悲鳴、重々しい肉体が鈍くぶつかり合う音などによって、暴力や殺害行為の残酷さ凶悪さを演出しており、スプラッター的な派手さは一切ない。


 また、主人公ホンカのキャラクター自体もかなり地味だ。

 彼は殺人鬼といっても、殺しをゲームのように楽しんでいるわけでも、あるいは電波的な妄想に駆られて派手な殺人を繰り返すわけでもない。飲んだくれた状態で家に連れ込んだ女性たちと性行為に及ぼうとし、彼女らに抵抗されたり不能であることを笑われたりした際に、ついカッとなって殺してしまう、というどこまでも行き当たりばったりで無計画な、完全なる暴力衝動まかせの犯行でしかない。彼の殺しに独自の美学や哲学やクレバーさは皆無だ。

 性的不能者がセックスの代償行動として殺人を行っている、というふうにも捉えられるが、ホンカ当人がそこまで殺人に執着しているようにも見えない。酒の勢いも手伝って、ついカッとなって殺してしまう、というパターンしかない。

 殺人に至るまでの過程が非常に短絡的で、その後の死体処理もあまりに杜撰だ。冒頭で描かれる殺人では、死体をバラして捨てに行くが、全部を捨てに行くのが億劫になり、残りを部屋の物置のような場所に無造作に放り込んでしまう。その後の犯行も全て、被害者の死体の処理はバラして物置に放り込んでおく、という恐ろしいまでに雑なワンパターンに終始する。

 犯行を重ねるごとにその手法や方法論を工夫し向上させよう、というような姿勢はホンカには一切ない。彼はやることなすこと全てが雑で、そんな雑過ぎる人間がたまたま無計画に殺人を起こしてしまった。しかも何回も。という全くもってどうしようもなく、救いようのない話なのだ。

 被害者が年老いた女性ばかりなのも、そこにこだわりや執着があるからではない。単にホンカが陰気な醜男で若い女性など誰も寄り付かず、彼が家に連れ込める相手が、誰にも見向きもされなくなったような孤独なアル中の中高年女性しかいないからだ。

 それもおそらく最初から殺そうと思って連れ込んでいるわけではない。酒が入るとセックスしたくなる → 簡単に口説けるアル中の中高年女性を家に連れ込む → 彼女らに抵抗されたり馬鹿にされたりしてカッとなって殺してしまう。毎回このパターンでしかない。

 前半はそんなホンカの荒んだ日常が淡々と繰り返され、さすがに冗長過ぎるようにも思えてしまうが、中盤、交通事故に遭ったショックで目が覚めたのか、急に断酒を宣言、実行し、夜勤の警備の仕事にも再就職して、殺人もやめ、なんと彼が真人間として再出発する姿を見せられる。

 この中盤の転換点から、本作の作品世界の奥行きがグッと拡がる。酒を断ったホンカはとてもおとなしく、生活苦を愚痴って泣き始める女性の前ではオロオロしつつも優しく接する好人物だ。他者に対する雑で横暴な態度も、断酒と共に改善されたかに見えた。が、人生そう甘くはない。あるちょっとしたきっかけで、ホンカはまたもや酒に手を出してしまう。ここからラストへ向けての再転落の荒み具合は前半のそれよりも酷く、案の定、殺人にも再び手を染めることになる。

 本作は殺人鬼映画であると同時に、完全なるアル中映画でもある。主人公のホンカはセックスも殺人もどうやらアルコールがトリガーになっているようだし、彼以外の周りの人物もひたすら酒ばかり飲んでいる。原題の「Der Goldene Handschuh(ゴールデン・グローブ)」はホンカが入り浸っている24時間営業の場末の飲み屋の店名で、そこにはホンカ以上に危ない飲んだくればかりが集まっている。その店の常連客以外でも、ホンカの弟やホンカの職場の掃除婦とその夫、そしてホンカに惨殺される中高年女性たちも、登場人物の尽くが飲んだくれで社会からあぶれたような人物ばかりだ。

 『失われた週末』(1945年)、『酒とバラの日々』(1962年)、『荒野の千鳥足』(1971年)、『リービング・ラスベガス』(1995年)といったアルコールの恐怖を描いた傑作群の中に、本作『フリッツ・ホンカ』も連なると言っても過言ではない。

 自ら断酒を決意し、家の中の酒を全て捨てて再出発したホンカが、ほんの小さなきっかけで再び酒に手を出し、買い込んだ大量の酒のボトルを買い物袋から一本一本取り出して、それを黙々とテーブルの上に並べていく、という再転落の始まりとなるシーンはあまりにも切ない。

 私自身、どうしようもない飲んだくれであるが、それでも家飲みが全く好きではなく、その理由の一つに「酒の空き瓶を見るのがイヤだ」というのがある。

 それは酒の空き瓶以上に虚しさを具現化したような存在もないと思うからで、本作で描かれるホンカの部屋はまさにその酒の空き瓶だらけなのだ。あの無数の空き瓶は、彼の人生の虚無感をストレートに具現化した存在であると言える。そしてその空き瓶で年老いた女性を殴り殺すシーンのどうしようもなさは、本作における最も象徴的なシーンの一つだ。

 そんな飲んだくれのどうしようもない大人ばかり登場する本作だが、おそらく高校生くらいの年齢であろう少年少女だけが唯一、そのどうしようもない大人たちの堕落した世界を「別視点」から眺める存在として登場する。この2人もどうやら学校という真っ当な社会生活の中では少しばかり落ちぶれているようで、彼らはホンカたちの住む堕落した世界に少しだけ引き寄せられる。

 この2人がホンカと直接的に交わらないことが本作における唯一の救いであると思うが、しかし彼らも後々大きく社会から転落することがあれば、ホンカが入り浸る場末の酒場にいる大人たちのようになる可能性は大いにある。最後、訳あって酒場に留まる少年と、不安と不快感を覚え酒場を出てゆく少女の「差」は、彼らの今後の生き方の分かれ道を示唆しているのかもしれない。

 飲んで、飲んで、飲まれて、飲んで、飲み潰れてあとは殺すまで飲んで……うらぶれた場末に生きるアル中の大人たちと、そのうらぶれた空気の中で殺人鬼にまでなってしまった男のどうしようもない生き様を、とことんストレートに、そして非ドラマチックに淡々と描破した傑作である。

 

(2020年2月18日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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