第162回『ロケーション』

リアルの向こうへ突き抜けろ!!

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『ロケーション』
1984年:日本
監督:森崎 東


 『雨に唄えば』(1952年)
 『8 1/2』(1963年)
 『アメリカの夜』(1973年)
 『スターダスト・メモリー』(1980年)

 古今東西、映画撮影・映画制作の舞台裏を描いた傑作は少なくないが、本作『ロケーション』もまた、このジャンルにおける傑作の一つだ。カメラマンのべーやん(西田敏行)を主人公に、低予算で製作されるピンク映画の撮影の過酷な舞台裏と、そこで奮闘する活動屋たちの姿が描かれる。

 基本的に人情喜劇のような作りだが、序盤のドタバタした軽喜劇風なノリから、次第にピンク映画の撮影そのものが、その主演女優である笑子(えみこ/美保純)の内奥をたどる「旅」になってゆく。ピンク映画としての作品が、笑子の暗い過去と、彼女がそこに作り上げて来た「虚構」を一つひとつ解きほぐし清算してゆくような、いわば彼女の精神史をさかのぼる「旅」と化すのだ。

 たまたま監督(加藤武)の目に止まった素人娘の笑子を、途中降板した女優の代役に立て、「彼女の地を活かして」作品を作り上げようという監督の狙いが、結果的に笑子の実人生を反映させた作品作りへと昇華されてゆく。偶然のトラブルをどんどん作品作りの必然性へと即興的に変えてみせる、活動屋たちの現場者としての(まさに転んでもただでは起きぬ)力量に惚れぼれさせられる。

 低予算で撮影日数が少ない中、女優たちの相次ぐ途中降板や体調を崩した監督の戦線離脱といった様々なトラブルに見舞われながらも、少数精鋭のスタッフで一丸となってそれらの障壁を乗り越え、次第に彼らの撮影している物語自体が、笑子というヒロインを通して「虚」と「実」の境い目を消失してゆき、ついには「虚」が「実」を突き抜けるようなラストカットに到達する。

 笑子の過去の清算(不遇な過去をなかったことにするのではなく、映画として自ら演じて「再現」し、しっかりと対峙した上でそれを成仏させ、そのわだかまりを流し去る……というある種の儀式)が、紙風船の精霊流しで表現される映画内映画のラストカットの美しさは、静謐ではあるが、映画という「虚」が人生という「実」を超えてゆく鮮烈な光景として、力強く胸を打つ。

 「嘘つき笑子」と呼ばれる彼女が、虚構で塗り固めざるを得なかったあまりに不遇な過去の真実と対峙するために、ある種のセラピーのようなものとして映画(演技)というフィクションが用いられる(初めからそう意図したわけではなく結果的にそうなった)、というメタな構図が面白い。

 映画撮影の舞台裏を描くバックステージものとして実に素晴らしい作品だが、本作が凄まじいのは、そこからさらに創作における「虚」と「実」の不確かさを描き、延いては登場人物たちの人生における「虚」と「実」の不確かさも物語りながら、ついには「虚」が「実」を突き抜けてゆくような(ある種、狂気的とさえ言える)領域にまで到達するところだ。

 あくまで軽喜劇的なノリで話は進められるが、最終的には重喜劇的な味わいも滲み出してくる。この喜劇性における軽重の独特のバランス感覚は、同監督作『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』(1985年)でさらに先鋭的に突き詰められている。

 本作における重喜劇的な要素は、ヒロインである笑子の暗い過去をめぐる話から滲み出してくるものだが、主人公のべーやんにしても、そもそもピンク映画のカメラマンを辞めようかどうか迷っている(つまりは人生に迷っている)キャラで、彼の内縁の妻である奈津子(大楠道代)が睡眠薬自殺を図る(おそらく過去に何度も繰り返している)というショッキングなシーンが冒頭で描かれる。つまりこの映画自体、入りからしてそもそも重いのである(軽喜劇風に描いてはいるが)。

 笑子が「親殺し」であるという虚実定かでない噂も中盤から出て来るが、その伏線として、ベテラン照明技師の米さん(大木正司)に「妻殺し」の噂があることにも触れられ、笑子と米さんのこの共通点は、そのままこの二人が親子役を演じることになる映画内映画のラストへと繋がってゆく。

 映画にも「虚」と「実」があるように、誰の人生にもやはり「虚」と「実」があって、そこに明確な境界線などない。本作は、その「たかが映画」と「たかが人生」が激しくぶつかり合い、濃密に交じり合って、狂気的な領域にまで突き抜ける。トリュフォーの『アメリカの夜』を軽喜劇風にした作品だが、『アメリカの夜』よりも狂気的で、その突き抜け方はフェリーニの『8 1/2』のようであり、同時にウディ・アレンの『スターダスト・メモリー』のような人生への哀愁を思わせる。

 「映画の嘘」を描いた部分で面白いのは、関係者で粗編集版を試写するエピローグ。

 映画内映画の監督は体調不良のために序盤で撮影から離れており、中盤以降の(カメラマンのべーやんが中心となって撮影を進めた)現場での出来事は知らない。序盤で主人公の母親を演じるのは(べーやんの内縁の妻で女優でもある)奈津子だが、実は奈津子も序盤で撮影を降りており、終盤では奈津子とそっくりな別人(大楠道代による一人二役)がその役を演じているが(厳密に言うと演技ではないが)、監督はそのことに気付かずに「しかしなっちゃん(奈津子)、演技が巧くなったなぁ。この作品の序盤と終盤じゃ、まるで別人だよ」と感心する。

 ネタバレになるので詳細は省くが、序盤で奈津子がするのはあくまで「演技」であり、終盤で奈津子そっくりな人物がするのは、厳密に言うと「演技」ではなく過去の自分の「再現」なので(つまり自分自身をそのままリアルにさらけ出しているので)、当然ながらその質は序盤と終盤で全く違うものなのである。どちらも「演技」と言えば言えるが、少なくとも「他者を演じる演技」と「自己を演じる演技」という差異(質の違い)はある。事情を知らぬ監督はそこを一人の人物の演技力の変化(一作品内での女優の急激な成長)と勘違いしたのだ。同じフィルムの上で全く違う人物が一人のキャラクターになり得てしまう、というまさに「映画の嘘」が成せる面白さを描いている。

 ここでさらに面白いのが、チーフ助監督(竹中直人)が監督に「ストーリーの整合性にだけ問題がある」と相談し、それに対し監督が「編集でどうにでもなる」と返すところまで描かれている。かなり細かい演出だが、これもまさに「映画の嘘」が成せる技についての言及だ。

 彼ら活動屋はいわば「嘘」を作り上げるプロだが、その「嘘」から現実以上の真実の物語を生み出すことに心血を注ぐ。それが彼らの生業であり本分である。

 中盤、罪の意識に苛まれているロリコン教師(佐藤B作)が、撮影隊に対して、自身の過去の罪を意識しながら「どうか真実を描いて下さい」と懇願するくだりも面白い(ちょうどこのあたりから、映画内映画の「虚」と「実」の境界線が、笑子という被写体を介して消失し始める)。

 カメラマンが自らクレーンに吊り下げられてまで撮りたい、否、撮らなければならないカットがある。魂を打ち込み、狂気的に突き抜け、そしてどうあっても絶対にラストカットまで撮り終えて完成させなければならない作品がこの世にはある。そういう意気込みで幾多の苦難を乗り越えて作り上げた作品が、時には配給会社側に全く理解されないこともある、という現実の厳しさまでをも本作は描いているが、それでもまた彼ら活動屋は次の作品を撮り始める。

 眠りに落ちた後ですら、彼らは夢の中で映画を撮る。

 本作は、映画に狂い、映画に狂わされた人間たちの剥き出しのバイタリティーに肉迫し、それを余すところなく描き切った、日本映画を代表するバックステージものの一本である。

 

(2019年12月20日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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