第143回『勝手にふるえてろ』

世界(他者)と自己の距離感

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『勝手にふるえてろ』
2017年:日本
監督:大九明子


 ポップなドタバタ系ラブコメディーと見せかけて、世界(他者)と自己、現実と理想のコミュニケーション不全な隔たりを強烈にえぐった一本。

 主人公ヨシカは24歳のさえないOL。恋愛経験はなく、中学生の頃に片想いしていたイチという同級生のことを今でも「脳内に召喚」して疑似恋愛に浸っている。昼間は事務仕事をし、帰宅し、夕食を食べ、あとは深夜までネットで「絶滅した動物」を検索しながら、自分の姿をそこに重ねる毎日だ。そんなある日、彼女は同僚の霧島から突然「付き合ってほしい」と告白される。

 霧島はデリカシーのない男だが、人生で初めて告白され、まんざらでもないヨシカ。霧島の押しの強さもあって、何度かデートを重ねるが、一方でまだイチのことが忘れられない。死ぬまでにどうしても憧れのイチに再会したいという思いに駆られたヨシカは、ある偽装工作に走って地元での同窓会を企画し、見事、憧れのイチとの再会を果たす。

 そしてここから映画は驚くべき大転換を経て、ポップなドタバタ系ラブコメディーであった前半から、後半は一気に世界と自己認識の解離を描いたサイコホラーの領域に突入し、壮絶な独り『ファイト・クラブ』的展開を見せながら、最終的に「ヨシカがこの世の現実とどう向き合うか」というところを、恋愛ものとしての骨格を崩さずに描いている。

 さほど複雑な構成の作品ではないが、物語の前半と後半を分かつ大転換ポイント(サイコティックなミュージカル演出になっている)からラストまで、こちらの精神もブンブン振り回され、かつまた、自分の世界に籠って厭世的に生きている私のような凡人オタクはグサグサと心を突き刺され、それでもなおグイグイ引き込まれる魅力とパワーを持った作品だ。

 本作において、ヨシカは単に「恋に不器用なヒロイン」としては描かれていない。とことん自身をこじらせてしまったコミュニケーション不全なイタイ大人として、残酷なまでにえぐられている。現実(外界)と理想の脳内世界(内的世界)の間の折合をつけるグレーゾーンすら、危険なくらい意図的に排除し続けて生きてきてしまった、他者の気持ちを汲み取れない人間として描かれている。

 ヨシカは自分が「絶滅させられる側」のか弱い人間だと思い込んで生きているが、その実は、自分が傷付きたくないばかりに、他者に自分の理想を勝手に付与して生きてきた、コミュニケーション不全のエゴイストなのだ。だから自分に自信が持てない以上に、他人のちょっとしたミスや非道徳的な行為が許せず、さらには相手の気持ちを推し量れずにエゴイスティックに傷付けてしまう。

 自身の聖域を侵されることを何よりも恐れながら、無自覚に他者の尊厳を傷付けてしまうほど自身をこじらせているのである。

 ヨシカが「無自覚に他者の尊厳を傷付けてしまう」ということに関しては、「名前」に関する演出がキーポイントになっている。彼女は自分が関心のない相手には、適当なあだ名を付けて、ちょっと小馬鹿にした感じで本名を憶えようと(呼ぼうと)はしない。そして基本的にそのあだ名を付けた相手との直接的なコミュニケーションは図らず、ただ自身の理想像を(良いイメージであれ、悪いイメージであれ)その相手に勝手に付与して妄想のネタにする。

 ヨシカのこの他者の尊厳性への無関心(自己の脳内イメージのみで勝手に他者を測ってしまう悪癖)、具体的には「名前を憶えない」「名前を知らない」というそのキーポイントが、中盤の大転換シーンで丸々ヨシカの身に血みどろのブーメランとして返ってくる(オカリナばかり吹いているアパートの隣人、岡里奈が、「私、名前に支配された人生なの。名前って大事でしょう?」と言う序盤のギャグが、この大転換ポイントの大きな伏線になっている)。

 そんな絶望的なまでにコミュニケーション不全なヨシカだが、後半は少しずつだが彼女の中で変化が起こり、彼女なりに現実との接合点(つまりは他者との現実的なコミュニケーション)を模索し始める。ここで最も印象的なのは「卓球」のシーンだ。他者とのラリーがそのまま心の通ったコミュニケーションとして表現される。ここは本当に美しい場面だ。そしてこの卓球のラリーが、ヨシカが他者と本気で心を通わせるラストシーンへとつながってゆく(ラストではこの卓球のラリーの音が、まるでこだまする二つの心音であるかのように再現される)。

 本作は9割方が主人公の主観を通しての比喩的・隠喩的な心理描写で構成され、かなり多重構造的な作りにもなっているが、しかしへんな小難しさはなく、あくまでポップな感性の映像表現として捌いてみせているのが素晴らしい。

 本作には「愛が人を変える」とか「ポジティブに生きろ」とか、そういう押しつけがましいメッセージ性はない。現実世界や他者に対する自己認識から尽く客観性を排除して生きてきた主人公が、自分でも気付かぬうちに厄介なコミュニケーション不全モンスターになってしまい、そこからまた他者とのコミュニケーションを取り戻していく、という話だ。

 世界(現実)と自己認識(理想)との乖離を描いているという意味では、本作は『ファイト・クラブ』(1999年)、『ハッピーボイス・キラー』(2014年)、『トレジャーハンター・クミコ』(2014年)といった作品にも通じると言える。極力、面倒な人付き合いを避けながら、自分の世界に籠って生きている私のような凡庸なオタクにとっては、色々と身につまされる作品でもある。

 

(2018年1月15日)

プロフィール

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わがままコブラ
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1984年5月2日
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