第141回『全員死刑』

家族という名の暴力的共同体

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『全員死刑』
2017年:日本
監督:小林勇貴


 『TOGA』(2013年)
 『絶対安全カッターナイフ』(2013年)
 『Super Tandem』(2014年)
 『NIGHT SAFARI』(2014年)
 『脱法ドライブ』(2014年)
 『孤高の遠吠』(2015年)
 『逆徒』(2017年)


 自主映画の世界で尖った作品を次々と生み出し、驚異的なスピードでメキメキと頭角を現してきた小林勇貴監督の商業映画デビュー作が、本作『全員死刑』だ。

 鈴木智彦による実在の事件のルポ『我が一家全員死刑』を原作に、社会の不条理や圧力、延いては人間そのものの残酷性・暴力性をブラックな笑いとして再構築した犯罪映画だ。ストーリー自体は至ってシンプルで、小さなヤクザの組を構える家族4人(父・母・息子2人)が、借金苦と妬み嫉みの逆恨み根性から、付き合いが深かったカネ貸し業を営む一家3人(母・息子2人)と、(偶然巻き込まれる形になった)その被害者一家の息子の友人1人の、計4人を惨殺してゆく様を描く。

 原作『我が一家全員死刑』の作中の大半を占める、加害者一家の次男(直接的に被害者4人を殺した実行犯)の獄中手記をかなり忠実になぞった作りで、どこまでも残酷な犯行の一部始終を、ブラックな笑いとして振り切って描いているが、そのブラックな笑いを生む加害者家族たちの言動は、映画用に大仰にデフォルメされたものではなく、原作の手記を極力そのままの形でトレースしている。

 基本的には、加害者一家の次男タカノリの主観で物語は進行していく。

 本作において、小林監督にとっての「リアル(事実)」の部分とは、原作の中の次男の手記に書いてあること、つまりは、彼の妄想や記憶違いや虚言や大言壮語までをも含む、彼が「見た」(そう感じた)ことの全てなのだろう。本作はそういう意味での「リアル(事実)」を軸として、そこに過去作で培ってきた独自性の強いアクやクセや映画的虚構を大胆に肉付けしながら、リアルと非リアルの境界線を意図的に消失させてゆく。

 最初の殺人(被害者一家の次男をタカノリがタオルで絞め殺す様)は乾いたリアリズムで描かれており、その被害者の死体を捨てるための車移動のシーンから、本作は加速度的に狂ってゆく。この車移動のシーンで、画面上に唐突にカチンコが現れ、「スタート」が打たれる。このカットが、良識の世界から狂気の世界へと映画自体が一気に突き進んで行く「合図」「契機」なのだろう。

 そして本作が恐ろしいのは、登場人物たちの言動が狂えば狂うほど(世の良識から外れれば外れるほど)、まさにブラックな笑いになっていくところだ。

 とにもかくにも加害者家族の無計画さ・杜撰さがひど過ぎて、ほとんどギャグ漫画なのだが、先述したように、本作は原作中の次男の手記に書かれた(次男が見、そう感じた)「事実」を、かなり忠実になぞっている。原作未読の人が映画を見れば、十中八九、映画用にかなり大仰にデフォルメされた末の演出だと思うに違いないが、実はそうではないのである。

 本作では素材(次男の手記)そのものが持つ、「あまりに突拍子もない残酷さが生み出す悲喜劇性」を、極力そのまま活かすように演出されている。

 普段からやることが雑な人たちが、計画犯罪を見切り発車で実行するとろくなことにならない……というところのブラックな悲喜劇性を描いた作品としては、本作は『ファーゴ』(1996年)や『キラー・ジョー』(2011年)、あるいは『ペイン&ゲイン』(2013年)といった作品の系譜に連なると言え、同じ実話ベースである『ペイン&ゲイン』とは特に近いものを感じる。

 小林監督は血生臭い肉体的暴力描写以上に、「社会的関係性の暴力」(上下関係の圧力や理不尽な搾取構造)を描くのが特に巧い。過去作においても、この点を巧みに描いている。本作『全員死刑』では、家族という最小単位での「社会的関係性の暴力」を描いており、本作における被害者は殺された4人だけでなく、主人公のタカノリもある意味で1人の被害者と言える。

 タカノリは別にやりたくて積極的に人殺しに参加したわけではなく、兄サトシに引きずり込まれる形で人殺しに関わり、結果的には、父や母にまでも上手いこと言いくるめられ、全ての実行犯になってしまう。冒頭で他者の身代わりに出頭させられるのも何だかんだタカノリだ。「家族のため」と言われると、「はいはい」と、イヤイヤながらも自分から面倒な役を買って出てしまう。タカノリのそういう性格を十二分に知った上で、父・母・兄は彼を利用する。

 家族を最小単位の社会として捉え、「家族であることの不幸」「家族であるがゆえの不幸」を描いた作品としては、本作は、『少年』(1969年)、『息もできない』(2008年)、『エル・クラン』(2015年)、『葛城事件』(2016年)などに連なる作品と言えるだろう。

 過去の自主映画初期作品からずっとそうだが、小林作品は一見、シンプルで粗いようなイメージがあるものの、伏線の張り方やその回収の仕方が実に丁寧だし、隠喩や間接表現に関しても繊細かつ多彩な表現を用いる。本作においてもこの特徴は随所に見られるが、特に素晴らしいと思うのが、サトシの傲慢さに憤慨したタカノリが、サトシに銃口を向けるシーン。

 サトシに銃口を向けるタカノリの背後で、工場の煙突の炎が燃え、そちらに何度かピントが送られる。この炎はおそらくタカノリの(制御出来ない)怒りや狂気を表していると同時に、映画を「向こう側」の世界へといざなう鬼火でもある(このシーンの終盤、タカノリの前に「あるもの」が現れる)。先述した「カチンコ」のシーンと同様、この「炎」のシーンも、主人公や映画そのものが何らかの「境界線」を越える契機としての、重要な転換点と言えるのではなかろうか。

 また、銃口を向けられたサトシが、命乞いをしながら家族の中での自分の「特異な立場」について言及する重要なシーンでもある。サトシがこの「特異な立場」にあると知ることで、実はサトシも単なる暴君ではなく、家族の中で(特に弟に対して)常に劣等感を抱く弱い存在であると分かる。

 小林監督は本作において、人が対立するシーンでは常に、その2人の「上下関係」(とその入れ替わる瞬間)を明確に描くことにこだわったそうだが、映像的にも、相対する2人の人物のどちらが「上か下か」あるいは「手前か奥か」といった配置を、かなり意識的に描いているとのこと(小林監督自身がトークショーやツイッターなどで言及している)。

 タカノリがサトシに銃口を向けるシーンにおいても、本作の中心人物である2人の上下関係(イニシアチブ)が、まさに(一瞬だけだが)入れ替わる瞬間が描かれているのだ。

 本作『全員死刑』を小林監督の過去作と対比して面白いなと思う部分は、過去作ではそこまで重要な存在としては女性キャラが出てこなかったのに対し、本作ではタカノリの恋人カオリが重要な存在として描かれている点だ。この恋人は、原作の中の手記でも、そこまで具体的には触れられておらず、明らかに映画用に膨らませたキャラクターだ。

 一見、エロ要員っぽかったり、男の「道具」として虐げられる側に描かれているようにも見えるが、その実は、一家の男たちより遥かに「強い」存在として描かれている。タカノリがカオリを怒鳴りつけ、張り倒すDVシーンもあるが、カオリはただ一方的にやられる存在ではない。思い切り反撃に出る。ガンガン殴り返し、咬みついて、興奮した挙句、そのままセックスに持ち込む。善悪を超越した「暴力的なバイタリティー」に、本作では男だけでなく女もきちんと参加するのだ。

 本作において、いざという時に頼りにならなかったりビビったりするのは、常に男たちの方だと言える。小林監督が「女性のタフネス」を描く上では、やはり過去作にも出演している、監督の実の祖母と母のキャラクター(存在感)の影響が強いのは明らかだ。

 「母の強さ」を露骨に描いた『NIGHT SAFARI』はもちろんのこと(この作品での「強い母」の役は、実際に小林監督の母が演じている)、本作『全員死刑』に出てくる加害者一家の母親のキャラクターも、明らかに監督自身の母に似ている(演じている女優の背格好もかなり似ている)。

 余談だが、本作の登場人物たちが使っている独特な言い回しの言葉は、小林監督の出身地である静岡県富士宮市の言葉を基にした、映画用のオリジナル造語である(これは監督自身が何度も言及している)。実際の事件の舞台は福岡県大牟田(おおむた)市なので、原作『我が一家全員死刑』の中の次男の手記は、福岡言葉の言い回しで書かれている。映画版の劇中に登場する街はいわば「架空の地方都市」と捉えればよいのだろう(劇中に登場する車のナンバーは多摩ナンバーだが)。

 本作『全員死刑』に続いて、早くも小林監督による商業映画第2弾『ヘドローバ』(2017年)の公開が控えており、こちらも楽しみである。

 

(2017年11月21日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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