第140回『逆徒』

恐怖ヤンキー総括リンチ

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『逆徒』
2017年:日本
監督:小林勇貴


 『実録 私設銀座警察』(1973年)と『仁義なき戦い 代理戦争』(1973年)をニコラス・ウィンディング・レフン作品の世界観でミックスしたような、残酷リンチ不良怪談映画。

 小林勇貴監督の過去作、『NIGHT SAFARI』(2014年)や『孤高の遠吠』(2015年)と同じく、地方都市の不良社会における悪辣な搾取構造や圧力を丹念に描きつつ、そこに反逆の暴力装置としての「怨念」を召喚させた、実録不良映画のさらなる進化形だ。

 冒頭、深夜に仲間たちに呼び出された不良少年が、仲間内のカネを盗んだと責められ(おそらく濡れ衣)、ボコボコにリンチにされた挙句、ゴミのように捨てられる。死んだと思われた少年は砂利だらけの斜面を這い上がり、夜の街へ。ここから、「逆徒」と化した少年の復讐劇が始まる。

 メインのストーリーとしてはこれだけ。実に単純明快だが、本作はここに、「富士宮」対「富士」の不良グループの抗争劇を実録タッチで絡め、地方都市の不良社会における理不尽な搾取構造や、どこまでも息苦しい上下関係の圧力を、前作『孤高の遠吠』以上に生々しく描いている。

 肉体的な暴力描写に関しては、『孤高の遠吠』に比べると「量」を減らし「質」を向上させたという印象が強い。全体的に燻し銀な演出で、映画的なドラマ性は『孤高の遠吠』の方が色濃いが、『逆徒』では70年代東映実録路線のような、よりざらついたテイストを前面に押し出している。

 小林作品の大きな特徴の一つとして、特に三作目の監督作『Super Tandem』(2014年)以降は、どの作品にも、(娯楽性を持たせた上で)その骨子に明確な「社会的・社会批評的な視点」を有している、という点が挙げられるが、その点はやはり『逆徒』でもしっかりと掘り下げられており、「富士宮」対「富士」の不良グループの抗争の中で、下っ端の若い衆ばかりが無駄に命を削らされ、上の人間たちは自分の手を汚さず何でもカネでケリをつけようとし、さらには自分たちだけが儲けようとするその狡猾な姿を、ヒリヒリとしたブラックな笑いを挟みながら丹念に描き込んでいる。

 「不良も保険証がないとケンカが出来ない」(充実した社会保障がないと怪我をしても入院が出来ないので、いくら不良でも思うようにケンカが出来ない)という物言いの笑わせどころも、かなり高度な社会派のジョークと言えるが、もう一つ特に社会的な隠喩表現として素晴らしいのが、不良たちが先輩二人後輩二人でガレージで鍋をつついているシーン。

 先輩の一人がスッと後輩の空になったお椀に鍋をよそってやり、後輩が「あ、すみません」と恐縮していると、もう一人の先輩が「ばか、お前、そういうのは自分でやれよ」と小突く。これは完全に、どこにでもある日本式の先輩後輩の構図なのだが、そこに突然「逆徒」が現れ、場を一気に殺伐とさせる。体育会系的縦社会の普遍的構図を、この映画自体が刺しに来るシーンだ。

 このシーンで、後輩に鍋をよそってやるのは<ユキヤ先輩>だが、『孤高の遠吠』でも、何かと後輩に細かな気を配っては懐柔していた頭脳派の不良である。『孤高の遠吠』では、後輩を徹底的に脅し付ける役を相棒の<モトキ先輩>がやり、「まぁ、そのへんにしとけよ」と後輩にあえて「逃げ道」(実は搾取され続ける地獄への一本道)を作るのが<ユキヤ先輩>なのだ。

 このような、社会的関係性を描く上での実にきめ細かい演出の妙味が、作品全体の質を底上げしている。そういう意味で小林監督は「社会派」の要素も兼ね備えた映画監督と言える。

 個人的な皮膚感覚として好きな点は、先述したとおり、全体的にニコラス・ウィンディング・レフン作品のような雰囲気を感じるところだ。実際、刺客二人が原チャリに二ケツして標的を襲撃しに行くシーンは、レフン監督作『オンリー・ゴッド』(2013年)からの引用だそうである。

 娯楽性という点では『孤高の遠吠』の方が魅力的だが、より鋭利でざらついた作家性を味わえるのは、本作『逆徒』の方だと言って間違いないだろう。

 

(2017年11月9日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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