第136回『孤高の遠吠』

「好きな事して何が悪いですか?」という孤高の反骨

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『孤高の遠吠』
2015年:日本
監督:小林勇貴


 プロの役者ではない本物の不良たちを起用し、富士宮アンダーグラウンドの苛烈な暴力世界を描破した一本。いわゆる「ケンカ上等」なヤンキー映画ではなく、地方都市における不良社会のえげつない搾取構造と、そこから容易には抜け出せない閉塞感を実録的に描いている。

 不良らしい不良にまではなりきれない柔な少年4人が、地元のクラブで知り合った先輩から原付バイクを安く譲ってもらおうとしたことから、彼らの地獄巡りが始まる。

 たかが原付バイクに法外な値段をふっかけられ、どうにか手に入れたと思ったのも束の間、先輩たちから理不尽極まりない理由で「原付を降りなきゃ殺す」と脅され、買ったばかりの原付を没収されてしまう。おそらく先輩たちはこの荒過ぎる方法で、幾度となく地元の柔な少年たちからカネを巻き上げてきたのだろう。悪辣な不良たちが弱い不良たちを食い物にする地獄絵図だ。

 この件以降、少年たちは地元の先輩たちにいいように利用され、搾取され続け、ついには先輩たちの飼い犬として様々な犯罪の片棒を担がされながら、搾取地獄の底へと堕ちていく。

 つい昨日まで当たり前だった日常が、理不尽な暴力によって一瞬にして崩れ去ってしまう様を描いているという意味で、本作は『脱出』(1972年)や『悪魔のいけにえ』(1974年)に連なる不条理性を有した暴力映画と言える(少なくとも不良たちのかっこよさを描いた作品ではない)。

 肉体的・即物的な暴力もストレートに描いてはいるが、本作における暴力映画としての主軸は、より社会的な「関係性の暴力」を描いているところにある。

 先輩たちが自分より弱い存在の少年たちを飼い殺し状態で搾取し続ける様子は、そのまま「正直者が馬鹿を見る」一般社会の縮図だ。『仁義なき戦い』(1973年)がそうであるように、本作もまた、特異な暴力社会の内情を描きながら、同時に、ごく一般的な社会にも蔓延る理不尽な搾取構造を暗に示している。ヤクザもヤンキーもビジネスマンも、カネと地位と酷な強引さを持った狡猾な者が持たざる者を搾取し続ける、という本質は同じなのだ


 また、地方都市特有の「不良社会の搾取構造」を描いている中で、バイクが無軌道な若者たちにとっての精神的な「自由の象徴」であると同時に、タダで盗んで法外な値段で売り捌く「経済的なブツ」として扱われているのが実に生々しく印象的だ。バイクという象徴的なブツを介して、不良少年たちからまた別の新たな不良少年たちへと、地方都市特有の「暴力性」が継承されてゆく。(※追記参照)

 特にラストシーンにおいてそれが強調され、
実録的な犯罪映画である本作が、あのラストの描き方によって、ある種の神話的な物語性を帯びてくる。本作では「神の視点」はバイクが持っている。

 バイクという象徴物を介して描かれる、「自由を手に入れること」と「搾取的な社会構造の中に組み込まれること」の自己矛盾は、パンクがファッション的な商売として成り立ち、反骨性をパンクに求める若者たちが、結局その商売の枠に簡単に絡め取られてしまうことに似ている。

 本作で描かれる不良社会においても、自由を手に入れる行為が同時に搾取的なシステムに組み込まれてしまう危険性を孕んでおり、本作の主人公たちは、もろにその地獄を見ることになる。ただ、最後まで一人でそのシステムに抗おうとするのが、ユヅキという少年だ。

 『孤高の遠吠』というタイトルはまさに、ユヅキの「好きな事して何が悪いですか?」という、システムに組み込まれずに自由を手に入れようとする孤高の反骨的精神を表している。

 主人公4人の中で、ユヅキだけが最後まで自己の意志を貫き、圧政的な暴力に対して「抵抗する」「逃げる」ということを実践し続ける。他の3人は割と平気で仲間を売るし、自分を食い物にしている恐い先輩たちからちょっと優しくされただけで、簡単に心を許してしまう(もちろん先輩たちの優しさは偽物で、ただ使い勝手のよい奴隷たちを飼い殺しにしておくための演技に過ぎない)。

 製作費わずか5万円(らしい)の自主映画で、先述したとおり出演している不良たちも演技経験のない者ばかり。当然ながら作りはかなり粗い。

 が、本物の不良たちの、演技では決して出せない「恐さ」「厭さ」の圧倒的なリアリティー、監督が彼らから聞き出したヤバいエピソード(実話)の数々を巧みに織り込んだストーリーテリング、そしてあくまで娯楽映画然とした大胆な「嘘」をブチ込むユーモア溢れる作家性が、実にクレバーなアナーキーさでもってチャンポンされ、日本映画において、近年稀に見る痛快作に仕上がっている。

 本物の不良たちを起用していながら、決して彼らの世界を美化してはいないし、蔑んでもいない。「こういう世界がある」という生々しさを、不良たちと同じ高さの「ストリート」の目線から愚直に描いている。モチーフや被写体との距離感の取り方が絶妙だ。

 そしてその距離感の取り方の巧さは、「暴力を描く」という点においても同様のことが言える。「殴る蹴るという行為よりも“暴力に至るまで”、そこにこそ恐怖を感じる」(『感謝ドライヴ』/洋泉社MOOK『怪奇秘宝』収録)という小林監督独自の暴力論が、本作において見事に表現されている。小林監督は「暴力」そのものを描いているのではなく、登場人物たちそれぞれの「暴力との距離感(関わり方)」、つまりは「社会的関係性の暴力」を描いているのだ。


 だからこそ、地方都市の閉塞的なコミュニティー(いわば若者たちのムラ社会)の中で、最後まで自分を貫き、本当の意味での「自由」を手に入れようとするユヅキの姿に胸が熱くなる。

 不良社会であろうが一般社会であろうが、自分を安く売ってしまえばそこで終わり。本当の「自由」は手に入らないのだ。本当の「自由」が欲しければ、負け犬は負け犬なりに抗い、吠え続けるしかない。本作はそのことを見る者に鋭く突き付ける。

 
(2016年10月22日)



(※)追記

 「バイクという象徴的なブツを介して、不良少年たちからまた別の新たな不良少年たちへと、地方都市特有の『暴力性』が継承されてゆく」と抽象的に書いたが、監督の意図としては、もっと具体的に、バイクを介して「ウメモトジンギ → ユヅキ → 最後に出てくる少年」というふうに、「好きな事して何が悪いですか?」という「自由」の精神が継承される様を描いているらしい。

 

 以下、小林勇貴監督のツイートより。 
 

 ジンギ先輩とユヅキは同じことを考えているので同じバイクに乗るのです。そして二人が会うことはありません。同じ人と言えるからです。
 
 
 ジンギ→ユヅキ→最後の子
 

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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