第131回『葛城事件』

家族という名の逃げ場なき地獄

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『葛城事件』
2016年:日本
監督:赤堀雅秋


 本作は、「恐怖」ではなく「精神的不快さ」のみで煮詰めたホラー映画のような一本だ。話は至ってシンプルで、ある一家の家庭崩壊の顛末を描いている。

 葛城清(三浦友和)は父親の金物屋を継ぎ、妻・伸子(南果歩)、長男・保(新井浩文)、次男・稔(若葉竜也)と共に、夢のマイホームを持った理想の家族としての生活を始めた。しかし、清の偏った理想主義と他者の考えをまるで受け入れぬ性格、そしてどこまでも粗暴なクレーマー体質が次第に家族を蝕んでゆき、いつしか家庭は徹底的なコミュニケーション不全に支配されたストレス空間でしかなくなってしまう。

 そんな重圧の中で、妻・伸子は精神を病んでゆき、長男・保は結婚をして二児をもうけるが仕事が上手く行かず、失業の果てに自殺。社会に出ることさえ儘ならず、自分の人生に絶望した次男・稔は無差別通り魔殺人を起こして死刑判決を受ける。

 こうして全てを失った清だが、彼は意地でもマイホームに居座り、ご近所の白い目も何のそので、行き付けのスナックで酒をあおる日々を送っている。

 そんなある日、死刑廃止の活動家である星野順子(田中麗奈)が、死刑判決を受けた次男・稔と獄中結婚する。彼女は自分本位な愛や正義を振りかざし、それを他者にも無思慮に押し付ける狂信的な理想主義者だ。この映画で最も狂っているのは、清と順子である。精神を病んだ伸子も、自殺した保も、通り魔殺人を犯した稔も、皆ただの弱い人間だ。劣悪な環境を己の力ではどうすることも出来なかった、ただのか弱き人たちなのだ。

 対して、清と順子は、その主張する内容こそ違えど、極端に偏った理想主義者という意味では似た者どうしだと言える。二人は己の考えが極端に偏っているということにまるで自覚がなく、自己否定もない。どちらも凄まじいバイタリティーの持ち主で、ちょっとやそっとじゃへこたれない。この二人はいわば信念を持った狂人なのである。

 本作は、そんな本当に狂っている人間(清と順子)と、外圧的な影響によって狂わされたか弱き人間(伸子・保・稔)が、ひたすら噛み合わぬ会話を繰り広げる不条理劇である。劇中で交わされる会話の尽くが噛み合わないという、悪夢のような映画なのだ。

 中盤、諸悪の根源である父が不在の時に、母と息子二人がたどたどしくも「家族らしい」コミュニケーションを試みる場面がある。ここだけが唯一、彼らのコミュニケーション不全が克服されそうな希望を見せるシーンなのだが、それもやはり父の登場によって呆気なく打ち崩されてしまう。

 本作には、通り魔のシーン以外は、ほとんど直接的な暴力シーンはない。ほとんど血は流れない。言葉の暴力・精神的な暴力、そして圧倒的なコミュニケーション不全そのものが、ある種の暴力と化す恐怖を描いていると言える。主要キャラが皆揃いも揃って徹底的なコミュニケーション不全なので、会話の方向性がまるで分からぬ混線状態を延々と見せられる。

 これは演劇畑出身の赤堀監督ならではの変化球であると言えるのではなかろうか。これまで、演劇畑の作り手が映画を撮る、ということに旨味を感じたことはなかったが、コミュニケーション不全な「成立しない会話」の連続による会話劇を、アングラ臭くない娯楽映画として成立させた本作を目の当たりにし、「演劇畑の人ならではの映画」という旨味もあるのだな、と思うに至った。

 また、本作は、家族という関係性(特に家父長制)の下での暴力を描き、そこから社会全体の暴力にまで拡大解釈出来る映画でもある。大島渚の『少年』(1969年)も、家父長制の暴力から国家の暴力にまで拡大解釈出来る映画であった。そしてその系譜に『仁義なき戦い』(1973年)もある。近年では、ヤン・イクチュンの『息もできない』(2008年)なんかもそうだろう。

 家族(家庭)という空間がそのまま閉塞的な暴力装置と化し、内側から瓦解してゆく地獄絵図を描いた作品として、本作『葛城事件』は強烈な印象を見る者の心に焼き付ける傑作である。

 

(2016年7月4日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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