第126回『プレデター』

ただ生き残るために! ただ本能のままに!!

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『プレデター』
(Predator)
1987年:アメリカ
監督:ジョン・マクティアナン


 120年余りの映画史の中で、ただただ「戦う」ことがメインのマッチョなバトル・ムーヴィーというのは、それこそ星の数ほど存在するが、しかし本作ほどそれに特化し、「戦う」こと以外の要素(社会派的要素や抒情的なドラマ性やサスペンス要素などなど)を極限まで削ぎ落とした上での、まさに理屈抜きの傑作というものは極端に少ない。

 本作は、屈強な男たちが、ただ生き残るために、ただ本能のままに戦う姿を、とことんまでストイックに突き詰めたサバイバル・バトル・ムーヴィーの金字塔である。

 ある特殊任務のために収集された屈強な軍人たちが、中南米のジャングルで標的のゲリラを殲滅するが、その帰り道に姿の見えない謎のハンター(それが地球外からやって来た異星人だということは、観客にだけ分かるように描かれている)に遭遇し、その圧倒的な戦闘能力を持ったハンターと、屈強な傭兵軍団との壮絶な死闘が繰り広げられる。

 内容はたったそれだけ。本当にたったそれだけなのに、ハイクオリティーかつ骨太なアクション映画としてきっちり成立させているのだ。

 冒頭の特殊任務は、あくまで主人公たちの戦闘能力の高さを示すため、そしてジャングルという名の(戦うためだけの場所に最も適した)バトル・フィールドに彼らをいざなうための便宜的なものだ。一応、「政府の要人救出作戦だと思っていたものが、実はCIAの汚れ仕事の下請けを(そうとは知らずに騙されて)やらされていた」という傭兵アクションあるあるが描かれているが、これもほとんど取って付けたようなものでしかない。

 この手の肉弾バトルに特化した映画の成功例で、本作以外でまず思い付くのは、メル・ギブソン監督の『アポカリプト』(2006年)とギャレス・エヴァンス監督の『ザ・レイド』(2011年)だ。前者は本作と同じくジャングルをメインのバトル・フィールドとし、後者は犯罪者ばかりが住む高層マンションを密室的なバトル・フィールドとして、ひたすら命懸けの肉弾バトルが展開される。

 複雑なストーリー展開や抒情的なドラマ性、あるいは社会派的要素、謎解きサスペンスの要素等々を徹底的に排除し、屈強な男たちが「戦う」その姿にのみ特化しているという点では、どちらもやはり『プレデター』と同系列の作品であると言える(『アポカリプト』に関しては、メル・ギブソンのやや偏った歴史観や宗教観が反映されているきらいがあるが、それでも作品のメインはあくまで肉弾バトル・アクションにあると言って間違いないように思う)。

 ただ、『ザ・レイド』も『アポカリプト』も、どちらも「愛する妻子の元へ生きて帰らねば!!」という思いが、主人公の「戦う」ことへの最大のモチベーションになっているのに対し、『プレデター』は主要キャラである傭兵メンバーたちの(軍人としての戦歴以外の)過去や家族構成その他のプライベートに関する言及はほぼ皆無だ。つまり、男たちの「戦う理由」からも、極力、社会性や意味性やドラマ性が排除されているのである。

 本作『プレデター』において、「男たちは何のために戦うのか」という問いに対する答えがあるとすれば、それはずばり「生き残るため」ということに尽きる。「故郷で待っている家族のため」でも、「軍人としての職務を全うするため」でも、あるいは「自分のプライドのため」でもない。ただただ本能的にサバイブするためだけに(つまりは、自分の命を狙って襲い来る敵の息の根を止めるためだけに)男たちは戦うのだ。

 また、SFアクションとしても『プレデター』が異色だと思うのが、襲い来る異星人たちの目的が地球侵略でも人類の殲滅でもなく、ただ狩りのためのバトルを楽しむことにあるという点だ。

 プレデターたちは、己のハンターとしての誇りを証明するためだけに、地球という狩り場に時々こっそりとやって来ては、選りすぐりの屈強な地球人たちを見つけて、殺るか殺られるかの命懸けの狩りを楽しむ。プレデターの狩りは特に宣戦布告もなく始まるので、襲われる人間たちは最初は何が何やら分からずにパニクるだけだが、一人また一人と仲間を殺されていく中で、百戦錬磨の男たちは徐々にこれが狩りなのだということに気付き(本能的に嗅ぎ取り)、自分たちの裡深くに眠っていた野性的な闘争本能を次第に目覚めさせることになる。

 本作においては、特にジャングルという非文明的な特殊空間の中で、現代的な戦術と兵器を持った傭兵たちが、次第に動物的・本能的な第六感を研ぎ澄ませてゆく(プレデターとの戦いによって、野性的な闘争本能を目覚めさせられてゆく)その過程の描き方が実に秀逸だ。

 まずいちばん最初にジャングルでの戦いに順応し、誰よりも先にプレデターの存在に(嗅覚的・皮膚感覚的に)気付くのは、ネイティヴ・アメリカンの末裔であるビリー(ソニー・ランダム)だ。生まれついての第六感が鋭く、プレデターの目的が狩りだということにいち早く気付くのも彼であり、他の誰よりも先に(恐怖の先にある「逃げても無駄だ」という)野性的な闘争本能に目覚めさせられ、現代的な武器を投げ捨ててナイフ一本でプレデターとのガチンコ勝負に出る。

 CIAの職員になって以降、かつての現場主義的な軍人魂がすっかり枯れてしまっていたディロン(カール・ウェザース)も、「ここは俺に任せろ」な自己犠牲の特攻魂を見せつける。ビリーほど野性的にではないが、やはりディロンもこの戦いの中で、忘れていた闘争本能を呼び起こされたのだ。他のメンバーたちも、初段階において(何が何やら分からぬまま)不意打ちで殺されてしまう者以外は、やはりプレデターとの戦いの中で、恐怖の先にある野生の闘争本能に目覚めさせられてゆく。

 まず未知なる脅威に対する恐怖が先に立ち、そこから「逃げても無駄だ」「生き残るためには、相手の息の根を止めるしかない」ということに気付いて、次第に野生的な闘争本能を研ぎ澄ませながら脅威に立ち向かおうとする……という男たちの心理的推移の描き方が、本作は非常に巧い。屈強な男たちにまず何よりも先に圧倒的な恐怖を感じさせることで、後半、剥き身で脅威に立ち向かう彼らの姿が、より効果的にスクリーンに映えてくるというわけである。

 本作においては、(未知なる存在に対する原始的な)恐怖というものも、作品を構成する重要な要素の一つである。本作はホラー映画ではないが、真っ昼間のジャングルでの恐怖演出はすこぶる巧い。後半のド派手なバトル・アクションに控える形で、前半はじわりじわりと忍び寄る恐怖を実に丁寧に演出している。本作は一見荒々しいようでいて、その実はタメとメリハリをしっかりと利かせた、かなり手堅く作り込んだ作品であるように思う。

 そしてそんな「百戦錬磨の軍人たちが恐怖を感じる」という演出の中で最も素晴らしいと思うのが、過酷な戦歴を生き抜いてきたエリオット(ビル・デューク)のヒゲ剃りのシーン。いつどこから襲ってくるか分からぬ見えざる敵に対する神経をピンピンに張りつめさせ、その恐怖と緊張からT字の安全剃刀を持つ手に思わず力を入れ過ぎて、自分の頬を傷つけるばかりか、プラスチックのT字のヘッド部分をポキンと折り飛ばしてしまう。「恐いもの知らずの男にすら、ここまでの恐怖を感じさせる」という異常な状況を、台詞一切なしで見事に表現し切った名シーンだ。

 一方、プレデター側の感情的な部分はほとんど描かれないが、おそらく獲物が死ぬ気で反撃してくる方が、彼らがより本格的に狩りを楽しめるのは間違いないだろう。だから、初段階ではまず弱そうな獲物から先に殺し、より強そうな獲物の闘争本能を充分に煽っておいてから、メインディッシュたる(最後まで残った)最強の獲物と戦おうとする。

 アーノルド・シュワルツェネッガー演じる主人公ダッチも、最初は現代的な戦術と兵器でもって未知なる敵に立ち向かうが、武器も仲間も失って、とうとう裸一貫で戦うことになったとき、やはりビリーと同じように、ダッチの中でも野生の闘争本能が目を覚ます。ナイフ一本と己の肉体のみを駆使して木や蔓でトラップ作り、プレデターの弱点(温度の違いでしか敵の見分けがつかないという視覚面での限界)を利用した、天然の泥のカムフラージュ・ペイントに身を包んでの反撃に出る。

 最期はこの地球人の奮闘ぶりがプレデターのウォーリアー精神に響いたのか、それまで最先端の兵器を使用していたプレデターも、とうとう武器やマスクを投げ捨て、ステゴロ勝負に持ち込んでくるのである。それでも圧倒的な力の差はあるのだが、しかし獲物をただただ一方的に殺すのではなく、骨のある相手にはちゃんと同じウォーリアーとしての敬意の念を持つという、ここがプレデターのキャラクター造形としてのカッコイイところだ。

 そんな男臭いバトル・ムーヴィーとして非の打ちどころがない本作だが、ある種の「男子校」映画としても最高だ。戦闘シーン以外の男たちのやり取りも一つひとつが素晴らしい。

 ダッチとディロンのあの「空中腕相撲」はもちろんのこと、エリオットとクーパー(ジェシー・ベンチュラ)の戦友としての結び付きの固さ(クーパーの亡骸を相手に、エリオットがかつての戦場での思い出話をするシーンは沁みる)、全く笑えない下ネタを一人で飛ばしまくるホーキンス(シェーン・ブラック)と彼の下ネタに一度だけ大笑いするビリーのでこぼこコンビ感、そしてただただイイやつ感全開のラミレス(リチャード・チャベス)。

 シュワルツェネッガーをリーダーとするこの「男子校の廃部寸前の部活動」みたいな実にむさ苦しい風情は、まさに早過ぎた『エクスペンダブルズ』だ。

 冒頭、任務へ向かうヘリの中で、ディロンのブーツにクーパーが噛みタバコの真っ茶色なツバをベッと吐きかけるシーンがあるが、あれはCIAの「お偉方」であるディロンに対する挑発であると同時に、本質的な部分では一種のマーキング(というか、もうほとんど嬉ション)みたいなものではないかと思う。「お前は現場者じゃなさそうだし、信頼出来る男かどうかは分からんが、まぁこれから同じ地獄へ行くんだから、とりあえずよろしく頼むわ」というような、クーパーなりの挨拶(いわば荒くれマッチョの「紳士協定」みたいなもの)なんじゃなかろうか。

 これが若い奴らなら殴り合いのケンカにもなりかねないが、そこは百戦錬磨のベテランどうし、そう簡単に手を出したりはしない。「そういう汚ねぇ真似はよしてくれ」と言うディロンに対し、クーパーがただニヤッと笑って返すだけだ。男というものは、挑発的なマーキングで一瞬にして仲良くなれる生き物なのかもしれない。「紳士」どうしの挨拶に余計な言葉は要らないのだ。

 

(2016年2月10日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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