第125回『丑三つの村』

堕ちた神童の孤独な戦場

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『丑三つの村』
1983年:日本
監督:田中 登


 「罪を憎んで人を憎まず」とまでは思わない。あくまで罪を犯すのは生身の人間であり、あらゆる犯罪行為の根本には、それを犯す当人の愚かさ・弱さ・残酷さがあるというのが大前提だと思っているが、しかしながら、生まれついての殺人鬼や、あるいは人の痛みを全く理解出来ない真性のサイコパスばかりが凶悪な犯罪を犯すとは限らない、というのもまた事実だ。

 理由はどうあれ、基本的に凶悪な犯罪者を擁護するつもりは毛頭ないが、とはいえ、一人の人間が犯罪に走るまでの詳しい過程、社会的な背景、人間関係等々、内的・外的どちらの要因にもやはり興味が湧く。フィクションであれノンフィクションであれ、犯罪者の世界を多角的に捉え、そこから普遍的なテーマを導き出せるのが芸術や表現の面白いところであり、意義深いところでもある。

 残忍な犯罪者がみな「自分とは違う異常者」だと思ってしまえば気が楽だろうが、それでは単なる思考停止でしかない。もしかしたら、ごく一般的な世界に生きる平々凡々とした人間であっても、何かちょっとした日常生活のバランスを崩すことで、案外簡単に犯罪者たちの世界へズルズルと引きずり込まれてしまうかもしれない。犯罪者が「異常者である」ことよりも、むしろ「自分と同じ平凡な人間かもしれない」ということの方がよほど恐ろしいことであるし、常にそういった可能性も視野に入れて、犯罪というものについて考える必要があるだろう。

 本作『丑三つの村』は、1938年(昭和13年)に実際に起きた「津山三十人殺し」のノンフィクション小説(西村望 著)を原作にした劇映画。戦争を背景に、閉鎖的・因習的な村で村八分にされ、ほとんど味方のいなくなった生真面目でプライドの高い青年が、ついには村人三十人を虐殺するまでに至る過程を、ある種の「報われぬ青春映画」として描いている。

 主人公・犬丸継男(古尾谷 雅人)は、村始まって以来の神童と持て囃されている秀才で、真面目で純朴な好青年だ。彼の父母は早くに亡くなり、今は祖母と二人で暮らしている。日々勉学に励んでいるが、「男はいざという時は鉄砲かついで戦場で戦うものだ」という固い信念を持っている。

 派手さも女っ気もないが、戦争によって男手の減った村では、そんな彼でも夜這いをかければ簡単に体を許す女がいるし、真面目で心優しい彼のことを純粋に想ってくれる幼馴染のやすよ(田中美佐子)もいる。あとは立派な兵隊になって、お国のために戦う日を待つだけだ。そう思う継男にもとうとうその時がやって来るが、徴兵検査で結核と診断され、継男の男としての夢は脆くも崩れ去ってしまう。ここから、彼の運命の歯車が狂い始める。

 徴兵検査に落ち、おまけに(当時はまだ不治の伝染病であった)結核という診断まで下されてしまった男に、村の人々は手のひらを返したように冷たくなる。かつての神童は一夜にして穀潰しの疫病神にまで堕ちてしまったのだ。かつて彼に優しくしてくれた女たちも、まるで汚物を見るような目で蔑み、彼のことを変わらずに想ってくれているやすよでさえも、家族に反対されてもう会えないのだと言う。祖母は優しく継男のことを気遣ってくれるが、どこまでも生真面目で純朴な継男が、村人たちの仕打ちに耐えられるはずもなかった。

 そして、穀潰しのよそ者の男が村の男集のリンチによって殺されるのを目の当たりにした継男は、「村に不必要になった自分もいつか殺されるかもしれない」という疑心暗鬼に陥り、ついには自分に酷い仕打ちをする村人たちを皆殺しにする計画を思い付く。用意周到に計画決行のチャンスを窺い始める継男。彼の精神は極限まで追い込まれているが、しかし完全に発狂しているというわけではなく、むしろ彼の理知的な思考回路が、社会的な客観性と理性を失いながらも、その残忍な任務決行のために、努めて冷静に村人虐殺計画を練り始めたのである。

 そしてついに計画決行の日がやって来る。

 彼はまず村と外部との連絡網を絶ち、村全体を暗闇の戦場に変えるために、村の主たる電線を切り落とす。次いで、一人でこの世に残るのは可哀相だと、最後まで彼を気遣ってくれた祖母の寝首を斧で叩き切る。これで準備は全て整った。散弾銃と日本刀で完全武装した継男は、寝静まった村人たちを次々と血祭りに上げていく。虐殺を始めてもまだ彼は完全には発狂していない。自分に酷い仕打ちをしなかった村人や、幼馴染のやすよには傷一つ負わせないからだ。

 彼は憎い連中のみを一人ひとり確実に散弾銃の餌食にし、あるいは日本刀で斬り殺してゆく。許してくれと命乞いをする間もなく、ただギャーギャーと泣き喚き無抵抗に殺されてゆく村人たち。夜明け前の小さな村は、たった一人の孤独な男によって、まさに血みどろの戦場と化したのだ。

 社会に排除された孤独な男が、完全武装をしてその社会に牙を剥くという流れは、映画作品としては『ランボー』(1982年)や『タクシードライバー』(1976年)の系譜に連なると言えるだろう(描こうとしているテーマはかなり近いんじゃなかろうか)。

 同じ田中登監督による『実録 阿部定』(1975年)と同じく、犯罪者を特別な「異常者」として描くのではなく、自分の日常の周囲に一人はいそうな感じの人間が、ひょんなことから人生のバランスを崩し、ズルズルと犯罪者の闇の世界へ引きずり込まれてゆく……という描き方だ。『実録 阿部定』も『丑三つの村』も実在の事件を元にしているわけだが、劇映画であれドキュメンタリーであれ、そこはあくまで作り手の「視点」によって再構築された創作物である。

 たとえ今村昌平のように、徹底的な調査とリアリズムにこだわって実際の事件を映画化したとしても、それが作り手による「現実の再構築」である以上、その「作り手の視点」、つまりは「ある一視点」から解釈された創作物にほかならない。そういう意味では、報道などもある種の創作物であると言える。あまりデタラメな事実の歪曲は不味いかもしれないが、しかし単に史実をたどるだけが芸術や表現のすることではない。ある一つの特異な出来事から、何を読み取り、どんなテーマをそこに設け、いかに表現し、どう見る者に伝えるか。おそらくどんな事件を題材にしても、その表現としての行き着く先には、「人間とは何か」という最も普遍的な問いが待ち受けているに違いない。

 偏った因習に縛られた閉鎖的な差別社会の中で、悪辣な同調圧力によって押し潰された一人の人間が、自分を貶めた社会に対して、ある日突然、復讐の牙を向く……。

 いつの時代にも起こり得る事件だ。

 先述したとおり、凶悪な犯罪者を擁護するつもりは毛頭ないが、しかし社会がもう少し開けたものであったなら、「起こらなかったかもしれない」事件というものは案外少なくないのではなかろうか。犯罪を犯すのは生身の人間だが、その人間を犯罪に走らせるに至る要因というものも、その都度、客観的に考えてみる必要がある。

 「皆様方よ、今に見ておれでございますよ……」と己の牙を研ぎながら、虎視眈々と社会への復讐のチャンスを狙っている人間が、今日もこの社会のどこかに潜んでいるかもしれない。

 

(2015年11月30日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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