第121回『エルマー・ガントリー/魅せられた男』

信じる者は救われるのか?

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『エルマー・ガントリー/魅せられた男』
(Elmer Gantry)
1960年:アメリカ
監督:リチャード・ブルックス



 「君のやることは全て気に食わん。乱暴で下品でハッタリばかりだ」

 「乱暴で下品でハッタリばかり……いかにもそのとおり、あんたの言うことは正しい。あんたが高価な装丁本なら俺は安物のゴシップ誌だ。あんたは大衆には上品過ぎる。俺こそが大衆そのものだ。大衆は俺を求めているんだ」


 信仰が集団化され、ビジネス化され、政治化され、そこに同調圧力が生まれ、さらにそこに俗っぽい聴衆がエンターテイメント性を求めることで、集団化された信仰、つまり教団は、社会的組織として一気呵成に強大化し、延いては権威化・権力化する。

 しかしその教団(あるいはそこに属す聖職者)に対する醜聞がひとたび世に出れば、それがたとえ真偽の程が定かでないものであっても、一瞬にして聴衆の手のひらは返されてしまう。このどこまでも愚かで滑稽で狂気すら感じる、ある種の集団ヒステリーとしての宗教の興亡とそれに踊らされる大衆の醜態、そしてそこに生まれる欺瞞と矛盾を、本作は徹底したリアリズムで描破している。

 主人公のエルマー・ガントリー(バート・ランカスター)は自称セールスマンの風来坊。方々を渡り歩いてガラクタ同然の代物を押し売りしながら、その日暮らしの毎日を送っている。傍から見ればただの女好きな遊び人で、学もなければコネもない。が、おそらく生まれ持っての知能は高く、殊に喋りが絶妙に上手い。セールストークはもちろんのこと、酒の席でのちょっとした与太話でも、その場にいる人たちの心をがっちり掴んでしまうほど話術に長けている。

 そんな流れ者の彼が、いつものようにふらりと立ち寄った田舎町で、キリスト教リバイバル派の宗教団体に偶然遭遇し、その教団の伝道師シャロン(ジーン・シモンズ)に一目惚れしてしまう。彼女もまた聴衆の心を鷲掴みにする話術に長けた、強いカリスマ性を持った美女だ。

 エルマーはどうにかして彼女に近付こうと、持ち前の話術とコミュニケーション能力でもって教団に自身を売り込み、最初こそ胡散臭い男として遠ざけられていたものの、見事に伝道師として教団に身を置くことに成功する。ここからが彼の本領発揮だ。

 エルマーはもちろん信仰心のかけらもない男だが、「聴衆の関心をいかに引き付けるか」あるいは「聴衆が何を話してもらいたがっているか」ということをよく理解している。つまり、市井の俗っぽい人間たちが一体何を欲しているのかということを、その豊富な人生経験(長年、裏街道を渡り歩いてきた風来坊としての経験値)によって皮膚感覚的に理解しているのだ。

 彼の説教はまさに暴力的かつ見世物的で、「罪深き」聴衆たちを過剰に刺激し煽動する。あるときは罪悪感や恐怖心を人々の心に植え付けて震え上がらせ、そうかと思えば今度は神にすがる至福感・高揚感でもって人々の心を満たし、さらに畳み掛けるように「救い」や「赦し」を与えることで、彼ら聴衆を熱狂的なトランス状態へと導いてゆく(エルマーのこの過剰にデフォルメされた情熱的な話しぶりは、全盛期のアドルフ・ヒトラーの演説を思わせる)。

 こうして彼は、シャロンをも凌ぐカリスマ性を見せるまでになり、教団の知名度を急上昇させる。もちろん彼に信仰心が芽生えるわけもなく、目的はあくまでシャロンだ。彼女や教団幹部のモーガン(ディーン・ジャガー)、そして教団の活動に付き添っている新聞記者のジム(アーサー・ケネディ)などは、エルマーが山師だということを知っている(冒頭に挙げた会話は、エルマーのやり方を嫌うモーガンとエルマーのやりとりだ)。

 しかし今や「この男なくしてこの教団なし」と言っても過言ではない存在にまで登り詰めたエルマー。当然ながら敵も多いが、彼は根っからの悪人という感じがせず、どこか憎めない人間臭さを持っている。嘘八百で人々を欺きながら生きている山師には違いないが、しかしそれも実利的な損得勘定でそうしているというよりは、どこか人生をゲームのようなものだと思って楽しんでいるように見える。そしていくら口から出まかせとはいえ、彼の言葉には確かに人の心を打つ魅力がある。

 説得力を持った嘘は、それを求める聴衆にとってはもはや嘘ではなく真実である。エルマーの言葉には、まさにその説得力というやつがあるのだ。彼は聴衆が欲しがっている真実をいくらでも創り出すことが出来る。

 人が他者の言葉を信用するか否かは、その言葉が「真実か嘘か」ということよりも、その言葉に「どれほどの説得力があるか」ということに懸かっていると言えるのではないか。つまり、話し手の(身振り手振りも踏まえた)喋りの上手さが全てなのだ。

 例えば、いくら良い政策案を持った政治家でも、それを人に聴かせるだけの話術がなければ票には結び付かない。逆を言えば、あまり中身のない政治家であっても、タレント性の強いトークが出来れば人気が出るというのが世の現実だ。「タレント議員」とはよく言ったものだが、そもそも政治家という職種自体が人気商売そのものであることは間違いない。お茶の間の好感度がそのまま票数に結び付くと言っても過言ではないだろう。

 口先一つも行くところまで行けば多くの人を魅了することが出来るのだ。エルマーはこのことを肌身で理解している。そしてそんな彼の天性の口先を前に、最初は彼のことを訝しんで遠ざけていたシャロンも(さらにはモーガンやジムまでもが)、次第にエルマーの魅力に引き込まれてゆく。

 この時点で面白いのは、エルマーの素性を誰も気にしないところだ。

 特に教団の内部事情を全く知らない聴衆にとっては、たとえ素性が知れずとも、とにかく「説得力のある」説教をエンターテイメント性たっぷりに聴かせくれ、いつだって気分を高揚させてくれるエルマーこそが、まさに「神の使者」なのだ。

 もちろん、外部からのバッシングは常にある。いくら天性の山師といえども、やはり全ての人間は騙しおおせない。が、そういったバッシングを受ける度に、エルマーはその天才的な話術や交渉術でピンチを切り抜けてみせる。これは並大抵のバイタリティーではない。

 しかしそんな稀代の天才山師、エルマーの登場によって急成長したこの教団も、やはり盛者必衰のご多分に漏れず、最終的には破滅へと向かって突き進んでゆくことになる……。

 本作はいわば信仰が集団化された際の悲喜劇を描いた作品だ。カルトも巨大化すれば財力を持ち、政治力を持ち、時にエンターテイメント化される。そして宗教ばかりに限らず、あまりにも急激に肥大化した組織は得てして骨格が脆く、内側から瓦解してゆく危険性を孕んでいる。

 本作が面白いのは、とうとう最後まで主人公のエルマーが信仰に目覚めないところだ。彼は風来坊の小悪党だが、どこまでも人間臭い。教団を巨大化させることには夢中になるが、それはあくまでビジネス的なゲームとして楽しんでいるといった感じだ。一方、彼に見染められたシャロンはといえば、最後は己の信仰に溺れ過ぎて悲惨な結末を迎えることになる。

 エルマーは宗教的な意味での信仰には目覚めなかったが、それは彼がもともと他者の知恵に頼らぬ自流の哲学を持っていたからだ。つまり聖書の教えによってもたらされる哲学ではなく、人生の裏街道を歩いてきた人間の、いわば「路上の哲学」だ。

 生きるも死ぬも彼が頼るのは己のみ。信ずるのは己の経験則による自己流のセオリーと直感だけだ。信心深い聴衆たちにはそれがなかった(少なくともこの映画の中では)。だからこそ、エルマーはシャロン以上に信者たちを魅了し得たのかもしれない。

 また逆を言えば、エルマーがあれほどまでにシャロンに惚れ込んだのは、彼女の純粋無垢で盲信的な(つまりエルマー自身にはない)人間性ゆえだったのかもしれない。

 エルマーはしかし、シャロンのこの純粋無垢な「殻」を外側から力尽くで破ろうとした。つまり彼女を「聖女」ではなく「女」として目覚めさせようとした。結果、シャロンは確かに「女」に目覚めたと言えるが、途端に彼女の信仰はエルマーのそれ以上に嘘臭い茶番になってしまった。しかし彼女はそれでもまだ自身の信仰に溺れ続けた。

 せっかく自分の手で(人間臭い)「女」に目覚めさせたはずのシャロンが、それでもまだ(というか、それまで以上に)欺瞞的な信仰に溺れてゆく痛々しい姿を目の当たりにしたエルマーは、ただただ苦々しい表情を浮かべることしか出来ない。そしてその欺瞞的な信仰にその身を溺れさせ続けたシャロンは、最後の最後でとうとう、地獄の業火よりも熱い本物の炎に焼かれてしまう。

 果たして信じる者は救われるのか?

 この映画の場合は、シャロンのみならず、エルマーもまた信じる者だ(対する疑う者の代表格として描かれているのは新聞記者のジムである)。ただ、信じる対象を自分の外側に求めなかった(他者の言葉に救いを求めなかった)エルマーと、他者が創った物語に全ての真理を求めてしまったシャロンとでは、確実に何かが違った。自分で物語を創り出せる者(エルマー)と、そうでない者(シャロン)との間には、何か途轍もなく大きな溝が拡がっている。

 嘘と真実のあわいを(その境目を自分なりに考慮しながら)自由にたゆとうことが出来る者と、この世には絶対的な真実が存在すると信じて疑わない者(そしてそれしか信じられない者)……どちらがより自由でより幸福か? そんなことはもちろん誰にも分からないが、私個人の意見としては、前者の方が後者よりも遥かに創造的な生き方をしているようには思える(もちろん、どちらが正しいとかどちらが間違っているとかいう話ではない)。

 人が信仰心を持つこと自体は誰にも否定出来ない(することではない)が、しかしそれがあまりにも盲心的である場合はやはり警戒すべきだろう。そしてその盲心的な信仰を他者に強要し、排他的になってくるとなおのこと危険だ。少なくとも、何かを信じるも信じないも自由に選択出来る世の中であるべきだろうとは強く思う。

 

(2015年8月20日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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