第120回『セコンド』(1966年)

理想の人生、お売りします。

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『セコンド/アーサー・ハミルトンからトニー・ウィルソンへの転身』
(Seconds)
1966年:アメリカ
監督:ジョン・フランケンハイマー


 『フレンチ・コネクション2』(1975年)や『ブラック・サンデー』(1977年)といった骨太なアクション作品のイメージが強いジョン・フランケンハイマー監督による、ウルトラ・ヘヴィな社会派サスペンスの傑作。アクションなしでも凄い作品を撮る腕前を見せつける一本だ。

 初老の銀行員アーサー・ハミルトンは、絵に描いたような凡庸な勤め人。まともに就職し、まともに結婚し、まともに子供を育て上げ、今日もまともに代わり映えのない一日を過ごしている。子供たちが自立し出て行った家で、今は妻と二人きりの生活だ。夫婦の間に会話はなく、寝室こそ同じだが、別々のシングルベッドで背を向け合って寝ている。

 そんな冷めきった生活を送るアーサーであったが、ここ数日、彼は奇妙な出来事に悩まされていた。とうの昔に死んだはずの親友、チャーリーを名乗る男から度々電話がかかってくるのだ。初めはただのイタズラだと思っていたが、確かに親友にしか分からないような二人だけの想い出も事細かに話すので、混乱しながらもチャーリーの言う住所に出向いてみることに。

 「とにかく明日の昼にこの住所に来てほしいんだ。あ、それとその時は絶対にトニー・ウィルソンと名乗るのを忘れないでくれ」

 全く状況を飲み込めないアーサーだったが、死んだ友人からの電話をこのまま放っておくわけにもいかない。そして約束の住所へたどり着くと、そこにはただのクリーニング屋が。

 「あ、あの、私はトニー・ウィルソンだ。ここへ来るように言われたんだが……」

 クリーニング屋の主人がぶっきらぼうにメモを手渡す。メモにはまた別の住所が書いてあり、その場所へ向かうと今度は精肉工場にたどり着く。

 「トニー・ウィルソンさんですね。お待ちしておりました」

 アーサーは訳も分からずトラックに乗せられ、また別の場所にあるビルに連れて行かれる。そして彼を待ち受けていたのは、「生まれ変わらせ屋」とでも言うべき異様な裏ビジネスの組織であった。未だ状況を飲み込めないでいるアーサーを尻目に、スーツ姿の担当者は淡々とした事務的な口調で、これからアーサーに起こることを足早に説明する。

 「まず今現在のアーサー・ハミルトンとしてのあなたには死んでもらいます」

 「えっ?」

 「弊社の死体調達部門が、顔と歯と指紋を失くした死体をあなたの代わりとして用意し、世間ではあなたが死んだことにします。死因は宿泊先のホテルの客室火災ということにしましょう」

 「な、何のことだか私にはさっぱり……」

 「ええ、最初は皆さんそうおっしゃいます。で、次にあなたの全身に整形を施し、これまでの身分や履歴も全て一新して、これからはトニー・ウィルソンとしての新たな人生を謳歌して頂きます」

 男はさらに費用面のことや遺族のアフターケアのことなどを事細かに説明し、「あとはあなた様が契約書にサインするだけです」と一枚の紙切れをアーサーに差し出す。

 「す、少し考えさせてくれ……」

 戸惑いを隠せないアーサーに、今度はこの組織の代表者だと名乗る老人が話しかけてくる。

 「今、君の人生に大切なものはあるかね?」

 「長年連れ添った妻がいます」

 「その妻との仲はどうかね?」

 「…………」

 「もう互いが互いのことを必要としていないんじゃないのかね?」

 「……私には子供もいます」

 「では、その子供との仲は?」

 「……今は……たまに手紙が来るだけで…………」

 「つまり今の君の人生にはもう何もないんだよ」

 「…………」

 こうして、アーサーはトニー・ウィルソンとして余生を送ることを決意する。全身整形を施し、初老の堅物男からハンサムな独身貴族中年に大変身するアーサー。そしてかねてからの趣味を新たな人生に活かすために、「それなりの成功を手に入れた画家」というキャリア(もちろん捏造されたもの)も用意される。あとは海辺の美しいアトリエで、好きなだけ画を描いて過ごせるのだ。

 何の意味も価値も見出せなかったこれまでの人生とはおさらばし、これからは有意義で充実した人生を送ることが出来るはずであったが、彼はどうもこの新しい生活にも浮かぬ顔だ。やはりいくら表層的なライフスタイルを変えてみたところで、彼自身の本質的な虚無感は拭い去れないのか。

 物語はここからさらに二転三転し、誰もが予想だにしないであろう残酷至極な結末へと向かって突き進んでゆく……。

 「もっと有意義で充実した人生」を手に入れたいという願望は、凡庸な人生を送る人間であれば、誰しも一度は抱くのではないかと思うが、本作はその「もっと有意義で充実した人生」を、実に安直な手段(つまりはカネ)で手に入れてしまった凡庸な男の、どこまでも救いのない不条理劇だ。

 本作のラストは、『ソイレント・グリーン』(1973年)のラストと似ているようなところがあり、かなりヘヴィな後味の悪さを残すのだが、しかし私にはそのラスト以上に残酷だと思えるシーンがあった。「他人」として生きることになったアーサーが、「夫の友人」と偽って自分の妻を訪ねるところだ。このシーンでは、アーサーが「夫の友人」として自分の妻から「亡き夫」(つまり過去の自分)について色々と聞き出そうとするのだが、彼は自分の妻が予想以上に自分について何も知らなかった、という事実を思い知らされるのである。

 「夫はいつも無口で、私には何も話してくれませんでした。私は結局、何十年も連れ添った夫のことを何ひとつ知らないんです。実際に夫が亡くなるずっと以前から、私の中で既に夫は死んでいたも同然なんです……」

 この妻の答えに、ただただ唖然とすることしか出来ないアーサー。この世には夫婦どうしだからこそ話せない本音というものがあり、むしろそれは赤の他人であった方が話しやすかったりするわけだが、このシーンでは、その赤の他人には話しやすいであろう妻の本音を、実際の夫が(赤の他人として)妻から直接聞かされてしまうのである。

 自分以上に冷めきっていた妻の本心に初めて夫が気付く様を描いたシーンとして、これほど残酷なものはないだろう。「仮面夫婦」の「仮面」というのは、他者に対して夫婦が共同で被っているものという意味なのだろうが、実は当の夫婦各自が、その相手である「夫」や「妻」に対して互いに「仮面」を被っている、という方が本当ではなかろうか。

 近年では、デヴィッド・フィンチャー監督の『ゴーン・ガール』(2014年)における夫婦の描き方が、まさにこういう意味での「仮面夫婦」であった。結局、結婚した相手の本質などこれっぽっちも分かっていなかった……という寒々とした夫婦間の深い溝が、死よりも冷たく恐ろしい結末を(この場合は夫に)もたらすのである。

 『セコンド』において主人公のアーサーは、まず自分の妻に対して(知らず知らずのうちに)「仮面」を被り、そして自分の人生そのものに対しても「仮面」を被る結果になった。新しく手に入れたはずの「有意義で充実した人生」も、結局は自分の「本当の人生」には出来なかった。

 元々の人生において既に「仮面」を長く被り過ぎていたアーサーは、新しい人生においても、結局はまた同じような「仮面」を被り続けざるを得なかったのだ。いくら表層的なライフスタイルを変えてみたところで、その当人が内側から主体的・自主的に変わろうとしなければ、結局は何も変わらないということなのではなかろうか。この映画の中で、主人公のアーサー・ハミルトンは一度も笑顔を見せない。トニー・ウィルソンになってからも、とうとう最後まで本当の笑顔(心の底から楽しんでいる笑顔)を見せることはない。

 特にこれといった主体性を持たぬ「理想」は、つまるところ意志薄弱な「ないものねだり」でしかなく、個人個人の心のスキマに巣食うその他力本願的な願望こそ、本作に出てくる「生まれ変わらせ屋」のようなカルト的な犯罪集団の餌食になりやすいのではないかと思う。

 本作においてアーサーが心の底から人間的な抵抗を見せるのは、全ての取り返しがつかなくなってからだ。そこまで追い詰められてやっと彼は己の人生の舵を取ろうと試みるが、そのとき既に彼の人生は、遥か手の届かぬ「他人の所有物」と化してしまっている。彼はとうとう自分の人生の重みを自分で量ることが出来ないまま、それをそっくりそのまま赤の他人に奪われてしまうのである。

 

 自分の人生に意味や価値を見出すのは、他者ではなくあくまで自分自身だ。もちろん、長い人生において人から教わることは山ほどあるが、その他者の教えを取捨選択するのは、あくまで自分自身でしかないのである。己の人生の全権を他者に委ねてしまったとき、人は誰しもアーサーと同じような末路をたどることになるのかもしれない。
 

(2015年5月18日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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