第112回『DEAD OR ALIVE 2 逃亡者』

殺し屋たちの夏休み

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『DEAD OR ALIVE 2 逃亡者』
2000年:日本
監督:三池崇史



 「俺ら、確実に地獄行きだな」

 「少なくとも、俺はそうだな」

 「まぁ、どうせなら一緒に行こうや……」


 地獄どころか、まるで天国へと続いているような、黄昏色に染まった美しい丘を登ってゆく血まみれの堕天使二人。彼らの姿はいつの間にか少年の頃の二人に戻っている。アウトローたちの因果な末路を、どこまでも美しい抒情性とイノセントなノスタルジーで描き切った名シーンだ。

 本作は、哀川翔&竹内力のVシネ二大巨頭に三池崇史という組み合わせで製作された、『D.O.A.』三部作(1999年~2001年)の第二弾。本シリーズは、哀川&竹内のダブル主演という共通点以外は、三作それぞれが全く別物の独立したストーリーになっている。

 本シリーズの中ではおそらく、Vシネ二大巨頭がそれぞれ刑事と犯罪者に扮して壮絶な殺し合いをくり広げ、ラストはついに「○○を破壊する」というブッ飛びまくった一作目が最も有名だと思うが(私もこの一作目で初めて三池崇史という存在を知った)、しかし個人的にはこちらの二作目の方が、より三池作品らしい独特の人間臭さが滲み出ていて好きだ。

 殺し屋のミズキ(哀川翔)はある日、とある組の組長暗殺の依頼を受け、さっそくいつものとおり仕事にかかるが、ビルの屋上から狙撃しようとライフルの引き金に指をかけた時、標的である組長の背後にいた男が突然組長を射殺。あまりのことにポカンとしているミズキをよそに、その男は周りの組員たちも皆殺しにし、足早にその場を立ち去ってしまう。

 ミズキはスコープ越しに見たこの男の顔に、確かに見覚えがあった。男はかつてミズキと同じ孤児院で育った親友、シュウ(竹内力)だったのだ。

 完全に出鼻をくじかれ、仕事に失敗したミズキだったが、依頼人からしっかりと今回の分の報酬を受け取ると、バレないうちにそそくさと東京を逃れ、自分が育った孤児院がある離れ小島へ雲隠れする。そしてシュウもまた、何かに引き寄せられるようにこの島へと戻って来る。

 二人は共に少年時代をこの島の孤児院で過ごし、ミズキに引き取り手が現れたことで生き別れになっていたのだ。その後、ミズキの引き取り手は自殺してしまうが、ミズキはそのことを隠し、孤児院へは戻らなかった。そしてそれを知ったシュウは、ミズキを探すために孤児院を出た。

 それから二十年以上の月日が経ち、共に社会のアウトローに落ちぶれた今、奇しくも互いの原点であるこの島で再会することになったのである。

 二十数年ぶりに帰って来た故郷で、二人はしばし浮き世の殺伐とした生活を忘れ、島に残り漁師になっていたもう一人の親友、コウヘイ(遠藤憲一)と三人で、純粋だった「あの頃」のままにはしゃぎまわる。どう見ても堅気には見えない中年男三人が、田舎の小学校の校庭でギャーギャーはしゃぎまわっている姿を、これほど美しく撮れる映画監督は三池崇史くらいじゃなかろうか。

 こうして、懐かしい風景、そして懐かしい人たちとの温かい再会を果たし、アウトローとしての日常をしばし忘れていたミズキとシュウだったが、しかし彼らはもはや、一般社会では幸せに暮らしてゆけぬ犯罪者である。二十数年ぶりの里帰りであっても長居は出来ない。おまけに、二人が関わった組織の抗争が泥沼化している東京へも戻れない。

 「大阪で一緒にやらないか?」

 ミズキがシュウを誘う。ミズキは実は、殺し屋稼業の稼ぎを世界の貧しい子供たちのために寄付していた。生きていてもしょうがないような悪党を一人始末すれば、その報酬で十万人規模の子供のワクチンが買えるというわけである。孤児院育ちのシュウが、同じ孤児院育ちの親友のこの誘いを断るはずもない。二人は大阪へくり出し、再びアウトローとしての血みどろの日常へと戻ってゆく。

 そして貧しい子供たちの命を救うべく、日夜殺し屋稼業に精を出すが、やはりアウトローにはアウトローらしい因果な最後が待ち受けている……。

 アウトローとして生きる主人公二人の「もうあの頃には戻れない」というイノセンス喪失の儚さと、「それでもまだ、心の根っこには人間臭い優しさが残っている」という人間性そのものへの温かい眼差し……こういった要素こそが、三池崇史の描く人間ドラマの大きな魅力であり、本作にはそれが他の三池作品よりもかなり色濃く滲み出ている。

 主人公二人の命を狙う敵役の殺し屋三人衆(エディソン・チャン、魔裟斗、TEAH)もまた、かつては貧しい孤児であったのではないかと思わせるシーンがあり、こういった演出からも実に三池らしい(「善」対「悪」の二元論的な物差しで人を測らない)独自のヒューマニズムが窺える。

 本作は三池作品にしてはかなりマイルドな仕上がりだが、暴力描写に関してはやはり一切手を抜いていない。離れ小島でのゆったりとした生活描写と、都会での血みどろの抗争劇を、キレのあるカットバック編集で対比的に見せてゆくシーンなどはさすがだ。

 人間の美しい部分と醜い部分を二律背反的に見せながら、それでも決して人間そのものを突き放して描くことはない。正しかろうが間違っていようが、人間は死ぬまで人間臭く生きてゆくしかないのだ、ということを実に骨太に描き切っている。

 人は人を見返りを求めずに救うことが出来るし、また同時に無慈悲に殺すことも出来る。それ自体は動かしようのない事実であり、どれだけ残酷だと非難しようが、自分も結局はその中の一人でしかない。しかしそれでも、人は人のことを美しいと思えるし、愛おしいとも思える。おそらく三池崇史は、このどこまでもプリミティヴな人間ドラマを、つまりは、小ざかしい理屈を取っ払った領域での人間の純粋無垢なバイタリティーそのものを、ただただ愚直に描き続けているのではなかろうか。

 彼の作品の多くに暴力が介在するのは、それもまた人間の純粋無垢なバイタリティーの一つだからだ。決して即物的な暴力を礼讃しているわけではない。愚かしくも美しい人間という不完全な生き物を、その存在自体を全面的に肯定しているだけなのだ。

 

 つまり三池映画にとって、暴力とはあくまで人間存在の中のごくごく当たり前な一要素でしかなく、これを世間的な善悪の秤にかけること自体に意味がないと言っていい。
 

(2014年10月30日)

プロフィール

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ニックネーム
わがままコブラ
性別
男
生年月日
1984年5月2日
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