第110回『パワープレイ』(1978年)

権力の甘き香り

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『パワープレイ』
(Power Play)
1978年:イギリス、カナダ
監督:マーティン・バーク



  悪だの正義だのない
  どっちを己が恐いかだ

          友川カズキ 『一切合財世も末だ』


 腐敗した権力を打ち破り、人民のための理想の国家の再建という大義名分の下に行われる革命やクーデターも、その成功の暁には、結局はまた新たな権力を生み出すに過ぎない。権力というトロフィーがただ横滑りをして、以前の独裁者の手からまた別の新たな独裁者の手に渡るに過ぎない。本作は、現実の世界においても絶え間なく繰り返されている、このヘヴィな皮肉に満ちた血みどろの悲喜劇を、リアリズム重視の乾いたドラマと骨太なミリタリー・アクションで描いた傑作である。

 舞台は情勢が不安定なヨーロッパ某国。

 腐敗した政権に対するテロが頻発し、とうとう大臣が拉致され殺害されるという事件が起こる。これを発端に、大統領命令の下、秘密警察によるテロリストの一掃が行われる。疑いのある者が次々と逮捕され、拷問を受けた末に、ひどい時には秘密裏に処刑される。

 この血なまぐさい状況に危機感を抱いた知識人のルソー教授(バリー・モース)は、昵懇の仲である軍人、ナリマン大佐(デヴィッド・ヘミングス)にクーデターを提案するが、「この体制下ではあまりにも危険過ぎる」と却下される。引退を間近に控え、余生はのんびり過ごしたいと考えているナリマンからすれば、ルソーの提案はあまりに突拍子もないものである。

 しかし知人の娘がテロリストの嫌疑をかけられ、逮捕・拷問の末に非合法に処刑されたことを知ったナリマンは、とうとうクーデターを決意する。彼はまず、軍内部から有能かつ信頼の置ける人材を集めようとするが、やはり皆が皆、素直に首を縦に振ってくれるはずもない。それでもどうにかこうにか相手を説き伏せ、大方は思惑どおりの人物の協力を得ることに成功するが、しかし拠ん所ない事情から、野心家で考えの読めないゼラー大佐(ピーター・オトゥール)を引き入れざるを得なくなってしまう。信頼の置けない人間を仲間に引き入れることは当然ながらかなりの危険を伴うが、首都制圧のためにはどうしてもゼラーの率いる強力な戦車部隊が必要なのだ。

 こうして、ナリマンの指揮の下、クーデター実行へ向けての本格的な作戦が始まる。冷酷な男、ブレア(ドナルド・プレザンス)が率いる秘密警察の追撃をかわし、度重なる問題や痛手にも臨機応変に対処しながら、もはや後戻り不可能な獣道を一心不乱に突き進んでゆく。初めは「一人の犠牲者も出さず、一滴の血も流さない」と誓って始めた作戦だったが、状況が本格化するにつれ、次第に血なまぐさい様相を帯び始める。しかしもう誰にもこの計画を止めることは出来ない。

 そしてとうとう、クーデター実行の日がやってくる……。

 テロリスト側の容赦ない暴力と、それをさらに上回る権力側の無慈悲な報復がスクリーンを真っ赤に染め上げる序盤。秘密警察とクーデター派による水面下での緊迫した攻防戦を、スリリングかつサスペンスフルに描く中盤。本物の戦車部隊(カナダ軍全面協力)が首都を制圧する圧巻のクーデター描写に度肝を抜かれる終盤。そして多くの犠牲を出したクーデターの果てに待ち受けている戦慄のラスト。全編を通して「権力」対「武力」のリアルな攻防が骨太かつストイックに描き出され、そのパワーゲームの果てに待っている皮肉な結末によって、「権力という名の欲望を前に、果たして正義などというものは存在し得るのか?」という強烈な問いを投げかけてくる。

 一つの権力が倒されればまた新たな権力が誕生し、一つの暴力が過ぎ去ればまた新たな暴力が吹き荒れる。人類は自らが完全に滅び去るその日まで、この負の連鎖を繰り返し続けるのだろうか。本作は架空の国を舞台にしたフィクションだが、しかし先述したような負の連鎖を人類が幾度となく繰り返してきたのは紛れもない事実であり、現在も性懲りもなく延々と繰り返し続けている。

 なぜゆえ我々人間はこれほどまでに権力や暴力を欲するのか? という単純至極な疑問が、私の興味をこのような(広義的な意味での)暴力映画に向かわせる一つの要因なのかもしれない。現実に起こる戦争や殺人を肯定する気は更々ないが、しかしそれらを性懲りもなく繰り返してしまう人間心理の闇の深さに、常に私の興味は強く引き付けられる。


 

  戦争反対も結構だが
  人間反対ではないのか

          友川カズキ 『ピストル』

 

(2014年9月4日)

プロフィール

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わがままコブラ
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生年月日
1984年5月2日
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