第107回『少年』(1969年)

哀しき運命共同体

img_20231228-120322.jpg
『少年』
1969年:日本
監督:大島 渚


 大島渚の作品に関しては私は全くの門外漢だが、しかしこの『少年』という作品は大好きで、DVDも持っている(数年前、店頭で何気なく本作のDVDを手に取り、そのプロットに興味を引かれて衝動買いしたのだ)。本作は、実際にあった事件をモデルにした作品で、日本全国を流れ歩きながら、各地で「当たり屋」をして生計を立てる家族の姿を描いたロード・ムーヴィーだ。

 主人公の家族は四人。傷痍軍人の父(渡辺文雄)、後妻である母(小山明子)、少年(阿部哲夫)とその弟のチビ(木下剛志)。少年は父の連れ子で、つまりは母と少年の血はつながっていない。まだ幼いチビは父と母の間に出来た子である。

 父は家族の食い扶持を稼ぐために、母と少年に当たり屋をやらせている。往来で手ごろな車両に目星を付け、その前に自ら飛び出していってはねられたふりをする。そして家族総出の見事な連係プレイで運転手と医者を騙し、運転手から示談金をふんだくるのである。

 かなり手荒なやり口なので、同じ土地で何度も仕事をするわけにはいかない。時には警察沙汰になってしまうこともある。そのため、彼らは日本各地を転々とせざるを得ないのだ。そんな彼らには定住する家もなく、少年は学校にも通っていない。

 映画はこの悲惨な家族の姿を、少年を主軸に据えて淡々と映し出す。悲劇と言えば完全に悲劇なのだが、しかしながら本作は、この当たり屋家族を特別悲劇的には描いていない。世間一般的な倫理観・道徳観で云々するのではなく、家族という運命共同体の皮肉なまでの結び付きの強さ(そこから容易には逃れられないという現実)を描き出そうとしているのではなかろうか。

 実際、少年は一度は家出(定住する家は元々ないが)を試みるも、やはり寂しさのあまり家族の元へと帰ってゆくし、父と母の仲は完全に冷め切ってはいるが、しかしそれでも母は夫や子供たちを捨てて一人で生きてゆこうとはしない(というよりは「出来ない」のである)。

 この家族には、少なくとも世間一般に言うような家族愛はない。父は完全なる独裁者で、自分の利益のために妻や子供を利用しているに過ぎないし、母はそんな父にとっくに愛想を尽かし、子供たちに対しても、母親らしい愛情を持って接しているようには見えない(特に自分が腹を痛めて生んだ子ではない少年に対しては、何かと辛く当たっている)。

 この家族の中では少年とチビが唯一、人間的で純粋な関係性を保っていると言えるが、しかしチビはまだ幼すぎて、自分の置かれた状況の幸・不幸を把握出来る状態ではないし、少年とて、まだまだ自分の置かれた状況を客観的に把握し切れるほどの自我には目覚めていない。

 おそらく家族の誰も自分たちのこの状況を幸せだとか好ましいとは思っておらず、しかし同時に皆が皆、この運命共同体としての関係性に依存し合っている(というか、そうせざるを得ない)。本作はこの家族の悲惨な現状を、悲劇的にではなく、少し距離を置いた位置から淡々と描写し、そこから自然発生的に「家族とは何か」という至極ストレートな問いを投げかけてくる(そしてこの問いの延長線上には、「国家とは何か」という問いもまた同時に見え隠れしている)。

 父役の渡辺文雄と母役の小山明子の演技が素晴らしいのはもちろんだが、やはり本作における白眉は少年役の阿部哲夫だろう(10歳の役だが、おそらく撮影当時の彼も同じくらいの歳だろう)。

 詳細はよく分からないが、彼は役者ではなく、当時養護施設に入っていた少年なのだそうだ。映画に出演したのはこの一本だけらしい。詳細が不明なので、その身の上は置いておくとして、彼の顔や声やそれらが作り出す独特の雰囲気は、この映画の作品性そのものと言ってもいい。

 プロの役者ではなく、ほとんど演技経験のない素人を使うという試み自体は、長い映画史においてさほど珍しいことでもないと思うが、しかしそれが成功するかどうか(作品に良い効果をもたらすかどうか)となると、やはり成功例はそう多くはないんじゃなかろうか。私が知っている作品で最も有名なのは、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の『自転車泥棒』(1948年)。第二次大戦直後の敗戦国イタリアの悲惨な日常を描く上で、主人公の親子役に素人を使うことで、作品全体にこれ以上はないリアリティーを生み出すことに成功している。

 近年のものだと、フェルナンド・メイレレス監督の『シティ・オブ・ゴッド』(2002年)という作品が、ほとんど演技経験のない若者たちを演者として使った映画作品として、実に素晴らしい成功例である。60年代~80年代にかけて、実際にリオ・デ・ジャネイロのスラム街でくり広げられた若者たちの抗争劇を描いたものだが、一部の出演者を除いて、ほとんどのキャストに、撮影当時、実際にスラム街で生活していた若者たちが選ばれ、彼らに(一応の演技訓練を施した上で)アドリブ主体の演技をさせたのだ。これもまた演技を超えたところでのリアリティー(スラングだらけの言葉遣いや独特の地の仕草、そして汗ばんだ生活感の生々しさなど)が、見事に作品に活かされている。

 『少年』における阿部哲夫の素人ゆえの「地のリアリティー」も、これまた見事作品に活かされているが、彼の場合はもう一歩踏み込んだところの、彼独自の雰囲気というものを持っている。果たしてそれが彼の身の上に関係するものなのか、あるいは生まれ持った性質なのかは私には分からないが、彼なしでこの作品は成り立たないとまで思わせる独自性の強い存在感が、この少年にはある。弟のチビを相手に延々と宇宙人や怪獣の話をする少年の姿には、なぜだかとても物悲しい印象を覚えるが、これも少年を演じる彼独自の雰囲気がそうさせるのだろう。

 もちろん、純粋に演技という点で見れば、素人を使うことはリスク以外の何ものでもない。がしかし、演出する側の力量によっては、素人ゆえの独自性の強い味やリアリティー、存在感といったものを巧いこと作品に活かし得ることもある。そして本作は見事それに成功した稀有な一本だ。演者の「顔」がそのまま作品の「顔」になっている傑作である。

 

(2014年7月29日)

プロフィール

プロフィール画像
ニックネーム
わがままコブラ
性別
生年月日
1984年5月2日
QRコード
携帯用QRコード
アクセス数
ページビュー数