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管理人のひとりごと PART U

   管理人のひとりごと  PARTU 
                                      マジック回想 
[ 第一次西日本奇術クラブ時代 ]

 
(1) 西日本奇術クラブに入会 
    地元の町に転職して3年経過し、その間、肋膜炎で三ヶ月間病の床に
    臥すというハプニングがあったものの、体調も回復し職場にも慣れ、
    安定した生活に戻った。
    3年間の空白中も、当時、唯一の情報源であった「奇術研究」誌を
    愛読し、一人で細々とマジックを続けていた。
    しかし、過去の福岡市でのマジック友達との交流が忘れ難く、
    一緒に歩んできたM・N氏に相談し、1962年1月、憧れの西日本
    奇術クラブに二人揃って入会した。
    当時の西日本奇術クラブは、会員が一定の一時金を拠出した「A会員」
    と、一般の「B会員」の二つに区分され、われわれ若輩は、B会員の
    末席を汚すことになった。


  (2) 大会前の例会                     
    今振り返ってみると、のんびりした時代だったと思う。
    会員の大部分が社長さんや事業主の方で、若者は我々のほか数人
    に過ぎなかった。
    現在のNMCは、大会前の二ヶ月間に月例会とは別に8〜9回の
    練習日を設定して役員の指導のもと練習を重ねているが、
    当時は、例会の日に希望者のみが試演をするというもので、
    練習を強制されるわけではなく、大会当日に初めて演技する者が
    多かった。
    勿論、テープレコーダーなど普及する前なので、BGMなしで、
    試演するほかは無かった。
    私のだしものはシガレットで、大きい道具の持ち運びが面倒だった
     ので、前半のみを試演したに過ぎない。
    一年生の身で、手順の前半を一度だけ試演したにもかかわらず、
    何も違和感がなかった気がする。

 
  (3) 第9回西日本奇術祭    
    いよいよ11月4日になり、初めての発表会出演。
    私が演じる「シガレット」は、当時唯一の教材だった「奇術研究」の
    第2号を参考に組み立て、フィナーレに火が付いたたばこを捨てた
    シルクハットから10個のピースの箱が出てくるというもの。
    フラッシュペーパーやフラッシュコットンが存在したかどうか
    知らないが、爆発して煙が上がるもので効果を上げたくて、
    当時、写真撮影のフラッシュとして使っていたマグネシュームを
    ちり紙に包んで、タバコの火で点火させるという前時代的なもの。
    1200人収容の大舞台での初めての演技だったが、猛練習のお陰
    で、まずは無事に終えることができた。
    ただ、心残りなのは、プログラムの冊子以外、映像の記録が何一つ
    手元に残っていないこと
。  

                
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 (4) 一分ゲーム                       
    西日本奇術祭では、その年初めて「一分ゲーム」というものが
    試みられた。
    ステージの中央に一周1分の時計が設置され、その左右で交互に
    1分間のマジックを演じるもので、先ず上手の演者に1分間照明
    が当てられ、1分経過すると演技途中であっても照明が消え、次の
    下手の演者に照明が当るというもので、全員がこれに参加する
    ことになった。
    そのため、短時間で演技が終了してもスポットライトを浴びたまま
    時間をもてあまして立ち往生をする者や、1分経過しても
    不思議な事が起こらないまま照明を消される者など、観客の笑いを
    誘っていた。
    私は天洋で求めた「DYEING PAPER」を演じ、丁度1分弱
    で終わったが賞には入らなかった。
    昨今行われている、「2分間コンテスト」は、コンテストが主な
    目的なので、「一分ゲーム」とは、全く主旨が異なるようだ。 

 
  (5) マクドナルドのフォアエース 
    この大会でもう一つ印象に残っているのは、若手6名で演じた
    「マクドナルドのフォアエース」。
    等身大の巨大なカードを使って、4人の演者に4枚のエースを配り
    更に3枚づつのカードを配っていく。
    4人がそれぞれ巨大カードを前後に入れ替えてシャフルした後、
    カードの表を見ていくと、3人の所からはエースが消え、
    残りの1人の所にエースが集まっているというもの。
    当時はまだカードマジックに精通しているわけではなく、先輩達の
    指示通りにカードを扱っただけだったが、今にして思えば、
    「マクドナルドの100ドルルーティン」即ち「マクドナルドの
    フォアエース」だったと思われる。
    その後、一・二度使われたらしいが、残念ながら現在はそのカードの
    行方がわからない。

 
  (6) 石田天海師のレクチャー 
    1962年12月10日、来福された石田天海・おきぬの両氏を
    招いて、懇親レクチャーが開催された。
    永年アメリカで活躍されていた天海師が1958年に帰国され、
    その妙技をテレビでも拝見したことはあったが、まさか、直接
    指導を受けるなど夢想だにしていなかった。
    当日のレクチャーノートも8ミリの記録も無いので、
        1. 牛乳瓶の中にゆで卵を入れる
           ( 現在もYouTubedeで見ることができる )
        2. 確実に結んだシルクが解ける             
                という二つが記憶に残っている。

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  (7) クラブを退会     
    西日本奇術クラブに入会して1年。
    ようやくクラブの雰囲気にも慣れ、先輩諸会員はもとより、
    若手有望株のN氏やK氏の練達のスライハンド・マジックの影響も
    受け、マジックへの熱意が高まっている時、やんごとない事情で
    クラブを退会せざるを得なくなる。
    その原因は、お目出度いはずの私の結婚。
    福岡市から5〜60キロ離れた我が家から、一か月2回の例会に
    通う交通費やその他の雑費を支出するには、あまりにも少なすぎる
    収入とあっては、生活優先とせざるを得ず、クラブの継続を断念
    し、1962年(昭和37年)12月をもって、わずか一か年の
    在籍で西日本奇術クラブを退会する。 


 [ NAMC時代 ]              
 (8) 職場でのマジック    

    1958年(昭和33年)に再就職した頃は、まだカラオケなど
    無い時代で、酒席では順番に歌を歌わされることが多かった。
    音痴な私は、やむを得ず手品を披露することになり、そのことが
     いつの間にか職場全体に知れ渡り、なにかあるたびに「手品をやれ」
    と命じられるようになった。
    この頃、テレビはまだ一般家庭に普及する前の黎明期で、地方の
    都市で手品に接する機会は皆無に近かったため、私の拙い手品
    でも珍しがられたのだと思う。
    思い返すと「四つ玉」「神田祭」「銀座風景」や、
    結婚式では「紅白リンキングロープ」「ダイイングチューブでの
    紅白シルクのリンキング」
    などを演じることが多かったように思う。

 
  (9) マジッククラブを結成  
    私のマジックに興味を持ったK氏・O氏・M氏の3名が私に共鳴し
    時々集まってマジックの話をしようと言うことになり、OOO・
    マジック・グループ(NMG)として、1962年(昭和37年)
    11月10日に発足。
    翌1963年10月、かねてからの盟友U氏が、長期の療養生活を
    終え、職場復帰されたのを機に、新たに会則を制定し、
    「OOO・アマチュア・マジック・クラブ」(NAMC)で再出発。
    この際、練習嫌いの人の入会はお断りする意味で、
    「第4条 会員資格 コインフラリッシュのロールダウンを一週間で
    習得すること」
    と規定したため、M氏は失格で退会。新たにU氏、N氏が加わり、
    5名でスタートすることになった。

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 (10)  職場での活動                    
     勤務先には、労働組合とは別に、未婚者だけの任意の団体として
     「若葉会」という組織があった。
     毎年年末にはクリスマス・パーティーを開催していたが、誕生した
     ばかりの、私どものNMGに、早速出演依頼が舞い込んできた。
     私以外はマジックを始めたばかりなので、話し合った結果、一番熱心な
     O氏が参加することになる。
     それから約2週間、O氏が毎日の勤務後に私の家に立ち寄り、猛練習が
     始まり、「カメレオン・チューブ」・「シルクスルーグラス」・「不落の水」
     の三つをマスター。

     私の「クイック・プロダクション・チューブ」「玉子袋」「植木鉢」と合わせて
     どうにか要望にこたえることができた。
     この実績が買われて、翌年からはクリスマス・パーティーの常連となる。

 
 (11) 「奇術研究」誌      
    当時のマジック情報は、専ら力書房から季刊で発行されていた奇術
    専門誌の「奇術研究」で、幸い、私がマジックを本格的に始めた時期と
    ほぼ同時であったため、創刊号から愛読していた。
    日本でのマジック研究のパイオニアである高木重朗氏の海外奇術の
    紹介など、少ない情報を何度も貪り読んでいた。
    NAMCの会合では、私がそれから得た知識を例会でレクチャーする
    ことが多かった。
    季刊誌のほか、海外最新奇術の紹介と解説の「トップ・マジック」や、
    数点づつのマジックを詳説した「ホーカス・ポーカスシリーズ」、
    そのほかマジックに関する各種の単行本を出版されていて、
    地方に住むマジック・マニアにとっては「力書房」ならぬ「宝書房」的
    存在だった。
    力書房は、出版の傍ら、マジック用具の販売をしていて、当時唯一の
    通信販売店ではなかったかと思う。
    でも、奇術用具は高価なもので、公務員大卒初任給が15000円の頃
    6本リングが1500円、ゾンビボールが2000円、
    バニケンが3000円、チェンジングバッグが2500円など、
    昭和三十年代の我々に手が届くものは少なかった。
            
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 (12) 慰 問        
    5名で発足したNAMCは、毎月1回の例会で、例会の会場は会員の
    自宅を回り持ちして細々と研究を続けてきた。
    その成果を発表する場は主に職場の催しで、対外的には年に数回の
    遠征をおこなっていた。
    当時は、ボランティアという言葉が普及する前で、
    市内の幼稚園や保育園、市外の養老院に慰問に出かけていた。
    マジックの荷物を運ぶには、自家用車が普及していなかったので、
    タクシーを利用していたが、その出費がかなりの負担になっていた
    記憶がある。
    何れも無償の奉仕で、後日礼状が来ればよい方だったが、それでも、
    発表の場を求めて、全員嬉々として出かけていた。

 

  (13) ターベル・コース
    NAMCの情報源は、前述したようにほとんど力書房一辺倒で、
    私のレクチャーもマンネリ化していた頃、「ターベル・コース」発刊の
    報に接す。
    会員で協議した結果、1976年刊行の第1巻から1995年刊行の
    第8巻まで、全員がターベル・コースの全8巻を購入。
    月例会場を担当する会員が事前にターベル・コースで勉強して
    例会で講師を務めレクチャーをすることとなり、実行してきた。

      

[ マジック・ショップ ] 
  (14) 八重洲口大丸のテンヨー  
    1980年頃から、一年に数回、東京に出張するようになる。
    最初の内は上司との出張が多く、自由な時間が取れなかったが、
    時折単独出張の場合には、アルコールに弱い私の唯一の楽しみは
    マジック・ショップめぐり。
    とりわけ、東京駅八重洲口大丸のテンヨーは、僅かな時間でも
    立ち寄れるので便利な存在だった。
    当時のディーラーは星野氏で、主にカードやコインを求めたが、
    特に印象に残っているのは「サワ・ボックス」。
    一度は売り場を離れて帰路につきかけたものの、その魔法のような
    コインマジックが忘れられず、引き返して入手した思い出の品。
    その後、星野氏が「東京マジック」を開業されてからは長年通販で利用
    してきた。
    後年、星野氏はトランプマンとしてテレビで活躍されることになる。
 

   (15) 東京駅近くのトリックスとマジックランド
    八重洲口から徒歩数分の「トリックス」にもよく立ち寄ったが、
    ディーラーの方とあまり親しく話す機会がなかったのか、
    数点のレクチャーノートを購入した以外はあまり記憶にない。
    少し遠いが八重洲口から歩いていける距離の「マジックランド」にも
    何度も足を運んだ。
    いつもカウンターでは奥様が対応され、最初に訪れたときに
    エルムズレイ・カウントを用いるパケット・トリックを見せられ、当時
    その技法を知らなかった私は魔法のような現象に魅せられ、
    即購入した記憶がある。
    何度か行くうちに、トンさんが研究室から出て奥へ消えられるのを
    見かけたことがあるが、一般客の対応は奥様任せのようだった。
    いつかはマジシャンM師が窓際のソファーでくつろがれているのを
    拝見したこともある。

 
  (16) マリック プロモーション   
    五反田駅から徒歩十数分のところにある、フロンティア・ビルの
    「マリック・プロモーション」には何度も訪れた。
    開店の午後1時前に着いて、ディーラーの出店を待ったこともあるが、
    ディーラーは背の高い青年で、話しやすく、東京のショップでは
    一番親しみやすかったように思う。
    或る日、カウンターの内側にはいつものディーラー氏が居て、
    カウンターのこちら側に客らしい小柄な男性。
    いつものようにあれこれ物色した後、フォールディング・コイン用の
    輪ゴムが劣化したと話すと、客らしき男性がショウケースから出して
    代金は要らないとのこと。ディーラー氏も合意しているようなので、
    腑に落ちないまま有難く頂戴する。
    後日、テレビに登場したMr.マリックを見て、アッと驚く。
    件の男性は「マリック・プロモーション」のオーナーMr.マリック
    だった。
    更に、ディーラー氏が、四つ玉のようにカードを五指の間で増加させる
    マニピュレーションで世界に名を馳せるマーカ・テンドー師だった。

 
  (17) 魔 法 陣      
    池袋駅近くの書店のビルの上階にある堤芳郎氏経営の「魔法陣」にも
    何度か足を運んだ。
    いつもは閑散としていて客も少ないので、堤氏の姿は店頭に無く、
    備え付けの呼び鈴を押すと店に出てくると言うスタイルなので、
    特定の品物を求めて行ったとき以外は呼び鈴を押す勇気が無く、
    とっつきにくい感は否めなかった。
    ところが、Mr.マリックがテレビで超魔術旋風を巻き起こした直後、
    「魔法陣」を訪れて驚いた。
    いつもは無人のショップなのに、カウンターの前は20〜30人の
    人だかりで、後に立っても何も見えないという盛況。
    超魔術という触れ込みでも、それはマジックということは
    先刻ご承知のマジックファンが、
    マジックの新しい見せ方を再認識してのショップ訪問か。
    特に目的もなかったので、早々に退出。


「 奇術研究誌に投稿 」 
   奇術研究の22号・33号・59号に投稿したので、
   再掲したい

   18) ボトムののぞき見    
        
 奇術研究第22号 ( 1961 年  夏号 )
                 
                   
 
   (19) カードの秘密           
        奇術研究第33号 ( 1964年   春号 )

               

                       
           ( 註 ) 間もなくミスプリントが解消されました。

   (20) マジシャンの夢
           奇術研究第59号  ( 1971年 夏号 )

              
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「 雑 記 」
 (21) 滝の白糸
   平成3年10月に出張で金沢市を訪れた時のこと。
   現地の職員の方に案内されて、浅野川にかかる梅ノ橋を渡る寸前、
   橋のたもとに建っている像が、何と女大夫の水芸の像。
   団体行動のため立ち止まるわけにもいかず、心残りのまま通過。
   翌早朝、ホテルを抜け出して朝の散歩で、像の前に立つ。
   傍らに「水」のマークのある石柱があって、「水」に手をかざすと
   像が手にした扇子の先から水が噴き上がる仕掛け。
   手妻「水芸」をしばし独り楽しむ。
   帰宅して、金沢と水芸の関係を調べたところ、泉鏡花作「義血侠血」
   の水芸人滝の白糸の像で、白糸と村越欣弥との悲恋物語の舞台
   となった土地らしい。
   和妻としての水芸しか知らなかった無知を恥じ入る。
       
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