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管理人のひとりごと PARTT

  管理人のひとりごと  ♦♣♥♠♦♣♥♠♦♣♥
       マジック回想
            PARTT

                                
 [ 今 昔 ]
  
( 1 ) 裏街道の趣味  
        
       以前は、初対面の人に「趣味は何ですか」と聞かれて、
              「奇術です」と答えるには相当の勇気が要った。
     大人同士の会話では、普通、「ゴルフ」や「野球」、「音楽」や
              「囲碁」などが話題になることが多く、「奇術が趣味です」なんて
              返事をすると、スリか詐欺師にでも出会ったように、懐中物の
     警戒をされるのがオチだった。
     そうでなくても、手品なんか子供が見るものと決めてかかっている
     人たちは、「なんだ、子供だましのようなことをする奴か、こいつの
     知能もたかが知れているな」と一人合点をされそうだった。
     交友が深まった人に「奇術が趣味です」と言うと、「キジュツ?

     手品ですか」と怪訝な顔で聞き返されることが多かった。
   
( 2 ) 隔世の感          

    ところが最近はどうだろう。

    先ず、Mr.マリックの出現で、怪しげな超魔術ブームが起る。

    やがて、マリックの種明かし番組でマジックが視聴者の興味を

    そそりはじめ、その後に続々と登場するクロースアップマジシャン

    たちがカメラの前で起す魔法の数々がテレビで放映されるや、

    日本全国空前のマジックブームになった。

    最近、このマジックブームに少しのかげりはあるものの、まだまだ

    当分続きそうで、マジックファンが漸増しつつあることは喜ばしい。

    昔はテーブルマジックという言葉が一般的で、よほどのマニアで

    ない限りクロースアップマジックとは言わなかったが、

    今ではクロースアップマジックという言葉が市民権を得て、

    どこでも通用するようになりつつある。全く隔世の感がする。

[ 幼年時代 ]           

     ( 3 ) 手品との出会い

    幼少の頃、身近かな人に手品を見せられ、その魔法のタネを

    知りたがった記憶は誰の中にもあると思う。でも、大抵の人が

    タネがわからないままか、もしわかっても、その秘密があまりにも

    単純だったため、馬鹿馬鹿しくなり、興味をなくしてしまったのでは

    ないだろうか。

    私の場合、小学校入学前に、手品好きの叔父に見せられた

    いくつかの単純な宴会芸としての手品が最初で、その不思議さに

    魅せられ、何度もせがんだ末、やっとタネを教えてもらった感動が

    忘れられない。

    今でもはっきり覚えているのは、穴あき銀貨を紐で結んでぶら下げ、

    紐を焼いても紐の灰が崩れず、銀貨が下に落ちないという科学

    マジックや、銀貨を肘にすり込むという、今でも通用しそうな
    マジック
などだ。

    この叔父から、手品のタネはデパートで売っていると教えられたが、

    こんな重大な秘密を本当にデパートで売っているのだろうかと

    半信半疑だったことを覚えている。

 

   ( 4 ) 傘出し          

    5〜6歳の頃、祖母に連れられて町の劇場に行った。

    他に娯楽が無かった当時、私の小さな町にも劇場が一つと

    映画館が二つあって、どこも繁盛していた。

    私たちは下足を預けて、2階の席に案内された。芝居も見たはず

    だが、芝居のことは全く記憶に無い。

    幼い頭に刻み込まれたのは、和服を着た男の人が、舞台に

    座ったまま紙を燃やし、紙テープを投げ、長い布(延べシルク)を

    投げ、まとめた布の中から何本も和傘を出して、舞台一杯に

    並べていたことだけだ。

    思えば、これが本格的な手品を見た最初だ。 

 

  ( 5 ) 初めて買ったマジックグッズ

    小学校4年生の頃、隣町の従兄弟の家に遊びに行き、その町の

    お寺のお祭りの夜、夜店が並んだ参道の脇に人だかりがしている。

    覗いてみると、おじさんが振る竹の棒の先に次々と一銭銅貨が

    現われている。現われたお金を取っても取っても、空中や子供の

    肩や見物人のポケットから、棒の先にお金がついてくるさまは、

    正に魔法だった。

    これは、現在も扇子の先にコインが現われる「成金扇子」として

    販売されている物の原形の「成金棒」で、子供向きに安価に

    竹の棒で作って売っていたのだが、今思えば、パームやチェンジ

    の高等技法を使った、初めて身近で見るマジックらしいマジックに

    心を奪われてしまった。

    そのタネを何銭で買ったか覚えていないが、これが私が買った

    初めてのマジックグッズだ。

 

  ( 6 ) 慰問団            

    その後、世の中が戦時一色に染まっていき、成人男子は続々と

    軍に召集され、日に日に空襲が激しさを増す中、遂には本土決戦

    が叫ばれ、「欲しがりません勝つまでは」のスローガンの下、

    食べることに精一杯だったためか、娯楽どころではなくなった。

    でも、私が住んでいた炭鉱の町は、当時の最大のエネルギー源

    である石炭増産のため、国の手厚い保護もあり、労働者の為の

    慰問団が訪れることもあった。

    その演しものの中には、当然、歌や踊りもあったと思うが、それら

    のことは全く印象に残っていない。

    その中で唯一つ、紙に包んで焼いたお札が灰の中から再生する、

    所謂、「札焼き」の不思議さだけを鮮明に覚えている。

[ マジックに目覚める ] 

  ( 7 ) 街頭奇術師       

    戦後、 旧制中学に汽車通学をしていたある日、駅前の闇市の

    一角で、手品の実演販売をしているのを見つけた。

    空中から、次から次へとタバコを掴み取る「空中タバコ

    (ミリオンシガレット)」

    両手の親指を紙で結んだまま棒を通り抜ける「親指結び

    (サムタイ)」

    金属の大きな輪が繋がったり外れたりする「チャイナリング

    (リンキングリング)」

    テーブルに立てた紙の輪に新聞紙で覆った湯呑み茶碗を

    かぶせると、紙の輪が消えたり現われたりするうちに湯呑み

    茶碗が消えてしまう「コップの消滅(塩壜のテーブル貫通)」

    客が覚えたトランプが、客がストップといったところから出る

    「ストップカード(Oライド使用)」 

    はさみで切った紐がつながる「ダンテの紐(ロープカット)」

    右手に握った5個の碁石が1個づつ左手に移る「碁石の移動」

    など、初めて目の前で見る本格的な奇術に唖然とし、ただただ

    驚いて帰る。

 

  ( 8 ) 日 参            

    翌日、 もしやと思って昨日の場所に行ってみると、昨日の

    おじさんが同じ場所にテーブルを出している。左右と後は黒い幕

    で囲われ、正面には相変わらず人だかりがしている。

    同じマジックを二度三度と見ても、一層不思議さが増すばかりで       
    手品の不思議な魔力に魅せられ、毎日、下校時にそこへ行って

    手品を見るのが楽しい日課になってしまった。

    その頃の国鉄は、1時間か2時間に1本しか列車が運行されて

    いなかったので、次の列車が来るまでの間、たっぷりと時間があり、

    手品のおじさんのいやな目を避けて、人垣の間から何度も繰り返し

    覗き見ていた。

 

  ( 9 ) 自作1号           

    最初のうちは不思議さだけで、タネが全くわからなかったが、

    何日も続けて見ていると、少しづつタネがわかったような気が

    してきた。

    例えば、空中からタバコを取り出す「ミリオンシガレット」は、

    手の裏側にタバコを付着させる器具があるらしいことや、一方の

    手で次のタバコを補給しているらしいことなどがわかってきた。

    その器具の材質は何か、形や大きさは、などを考え続けた結果、

    缶詰の缶を切って成形し、一つの試作品が出来上がった。

    これをタバコに取り付け、鏡の前で実際にやってみると、出来た、

    出来た。このときの嬉しさは何にも例えようが無かった。

    その頃、あまり勉強していなかった私にとって、数学の難問題を

    解き明かしたときの喜びは知りようも無かったが、まさにそれ以上

    の喜びだったと思う。

    思えば、このとき、マジックの虜になり、マジックが一生の友に

    なろうとは。

 

  ( 10 ) 演じる喜び     

    後日、親友の父親が「空中タバコ」を買って帰ったことを聞き、

    こっそり見せてもらった。それを見て、私は自分の目を疑った。

    そのギミックは、私が初めてマジックを解明し、試行錯誤の末  
   
 作ったものと寸分違わぬものだった。

    このことが何よりの自信となり、街頭で覚えた4〜5種類の奇術を、

    家族や友人に見せては一人悦に入っていた。

    その頃の闇市には、ほかにも路上販売のディーラーが時々姿を

    見せていたが、どれも一日だけの出店だった。

    4枚のエースが全部キングに変化し、次には4枚とも白いカード

    になる「魔法のカード」や、数枚のカードがだんだん小さくなり、

    遂に消えてしまう「小さくなるカード」などが記憶に残っている。

 

 ( 11 ) 級 友      

    高校時代には、ただ一度だけマジックの思い出がある。

    雨の日にはいつも昼休みを過していた小講堂でのこと。

    A君の周りを級友数人が取り囲んでいる。

    覗いてみると、画用紙の上に直径5センチくらいの水色の細い

    ガラス製のリングが二つ並んでいて、その前にコインが1枚

    置いてある。リングにカードをかぶせてコインの上に置き、

    カードを取り除くと、、コインが消えたり出現したりするもので、

    今でも100円ショップで「消えるコイン」として売られている。

    その鮮やかな手つきに驚き、A君に対する級友たちの羨望の

    まなざしが、数日間、頭を離れなかった。

    高校時代に受験勉強に熱中したわけでもないのに、当時は

    テレビも無く、マジックに接する機会が無かったのか、これ以外の

    記憶は全く無い。

 [ 独 学 ]

 ( 12 ) 奇術書          

    大学進学後、本屋の棚に、今では古典となった柴田直光先生の

    「奇術種あかし」を発見。貧乏学生だったが直ちに購入し、

    数々のカードテクニックや、ロープ、コイン、ボールなどの基礎技法

    の親切な解説を何度もむさぼり読み、未知の世界に浸る。

    この本は、その2年前にイギリスで刊行された
    Jean Hugard 
とFrederic Braue の
    「The Royal Road To Card
Magic」
    を基に、カードの基本技法を系統的に説明し、その技法

    を使ったマジックを解説した、わが国最初の奇術書と思う。

    マジックの専門用語が普及していなかった時代なので、

    オーバーハンドシャフルを「上手切り」、カットを「切り返し」、

    グライドを「裏引き」ダブルリフトを「重ね上げ」リフルシャフルを

    「綾切り」などと訳されていて、先駆者の苦労がしのばれる。

 

  ( 13 ) 「 奇術研究 」誌     

    昭和31年、電力会社で軽作業に従事し始めた頃、会社がある

    福岡市の大きな本屋さんで、幸運にも季刊の奇術専門誌

    「奇術研究」の創刊号を発見し、すぐ買い求める。

    そこには、コインバニッシュの六つの方法の詳しい図解があったり、

    高木重朗先生の海外カード奇術の解説や、舞台魔術の解剖、

    或いは、小品奇術の紹介など盛り沢山で、一気に奇術への視野が

    広がりそうな予感に胸を躍らせ、不思議の世界へ没頭していった。

    それ以後、情報が少なかった地方の奇術ファンにとって、力書房

    から発行される「奇術研究」やその他の専門書や、力書房の

    奇術道具の通信販売は唯一の情報源で、「奇術研究」が86号で

    廃刊になるまで、20年間の友となった。

 [ わが師 ]

  ( 14 ) 大矢天斎師       

    その年の秋、勤め先の職場にマジシャンが居ることを知る。

    その大矢天斎師は、セミプロといった存在で、勤務の傍ら市内の

    興行師の配下にあり、漫才や舞踊などの芸人と一緒にあちこち

    のステージに出演していた。

    師が職場でカードを弄んでいるのを見て、私が声をかけたことから

    マジック談義に花が咲き、福岡市には西日本奇術倶楽部という

    アマチュアのマジッククラブがあり、師がそのクラブに所属している

    ことを知った。

    師を知ることにより、今まで独学で手探り状態だったマジックが

    急に身近かなものになり、いろんな人との出会いのきっかけに

    なり、私のマジック人生に一大転機をもたらすことになった。

 

  ( 15 ) 助 手          

    毎日職場で顔を合わせる大矢天斎師との仲は急接近し、いつの

    頃からか、師が出演する時は私がお供をするようになっていた。

    そのうち、次第にステージマジックのマナーや演技のコツを

    学び取っていき、半年後には、大矢師が興行師を通さず単独で

    出演するステージには、私も時々前座を勤めさせてもらえる

    ようになった。

    「奇術研究3号」の「クイック プロダクション チューブ」が

    私の持ち芸で、師と一緒の時は必ず私にそれをさせてくれた。

    その頃は、まだ、家庭にテレビが普及していなかったので、

    一般の人がマジックを見る機会は殆ど無く、不思議な現象に対する

    観客の驚きは非常に大きかったこともあり、人前で演じた時の

    醍醐味が忘れられなくなってしまった。

 

  ( 16 ) 初舞台           

    昭和32年6月、地元の町内会主催の敬老会に大矢師を招く

    ことになり、前日から我が家に宿泊してもらう。夕食後、近所の

    人たちに集まってもらい、数々の演技を披露され、楽しい前夜祭を

    過ごした。

    翌日の敬老会では、ハト出しをはじめ、プロ並みのマジックに

    ヤンヤの喝采を得て、私も大いに面目をほどこす。

    私も飛び入りで幾つか演じることになったが、顔なじみの客を

    前にして上がってしまい、コップからコップに移す水がこぼれそうに

    なるほど、手が震えていたことを鮮明に覚えている。

    私の演目は、夕涼み、ピラミッド、シルクカット、タンバリン、

    クイックプロダクションチューブで、大きな失敗は無かったものの、

    私の事実上の初舞台はほろ苦いものとなった。


[ マジッククラブ ]

 ( 17 ) マジッククラブを結成 

    その頃、同じ職場で働いていたM.N氏もマジックに興味がある

    ことを知り、会社帰りに大矢師のお宅に二人で伺って、夜遅くまで

    語り明かすことも度々だった。

    そのうち、大矢師の人脈で、印刷会社勤務のYK氏や、師の友人

    で、法務局勤務のO氏なども顔を見せるようになり、マジック

    の研究を始める。

    昭和32年7月には、「福岡アマテュアマジッククラブ」を結成、

    翌年7月「福岡奇術の会」と改称する。

    当時、バイシクルのカードは、時々、「奇術研究」誌の通信販売で

    1組300円で出ることがあったが市販はされておらず、公務員の

    大卒初任給が8000円の頃だから、今の物価に換算すると、

    カード1組7〜8000円くらいになり、若者が入手できる代物では

    なかった。

 

  ( 18 ) スライハンド       

    いつも大矢師宅で開く例会には、東京から帰福されたばかりの

    S・天佑氏も加わるようになり、昭和33年7月、会の名称を

    「幻夢会」に改める。

    S・天佑氏は東京でマジッククラブに所属していたらしく、ステージ

    中心の大矢師には無かったスライハンドマジックを見せられ、

    少しづつ、マジックの真髄がわかり始めたような気がする。

    先ず、初歩的なOムチップの使い方から始まり、カメレオンシルク・

    四つ玉・チャイナリングなどを通じて、客に対する手の角度や、

    体の向き、Oスディレクションなど、基本となる大切なことを

    学んでいった。

    その頃、OムチップやカメレオンのチOーブは、金属製で肌色の

    塗装がされていたが、厚紙で自作し、茶色のハトロン紙を貼って

    使っていたのも懐かしい。

 

  ( 19 ) クラブの活動        

    当時はまだボランティアという概念は無かったが、あちこちの

    お祭りや子ども会などの会合に出演するようになった。

    自家用車が普及する前だったので、大きな荷物を持って電車や

    バスなどを乗り継ぐことが多く、時には、止むを得ずタクシーを

    利用し、クラブの財政を圧迫することもあった。

    福岡市の孤児院を慰問した時は、夕刊フクニチに写真入で紹介

    され、少しづつ自信もついてきた。

    この頃は、勤務後の例会や出演で、終列車に飛び乗り、午前

    1時頃自宅に着き、床に就くのは午前2時になり、翌朝は6時

    起床という生活もしばしばだった。

    でも、若い身体に疲労は感じず、好きなマジックに没頭できて

    楽しいだけの毎日だった。

 

  ( 20 ) クラブの解散      

    このように、短期間ではあったが周りの人に恵まれ、充実した

    マジックライフを送っていたが、昭和34年の秋、大矢天斎師が

    50歳台で、続いてリーダー格だったK氏も30歳の若さで他界

    された。

    その前年、私も福岡の会社から自宅がある町へ転職していた

    こともあり、福岡市の幻夢会は自然消滅することになる。

    奇術に興味を覚え始めた黎明期

    奇術書による独学期

    演技を学習した師事期

    同好の士と過したクラブ活動期

    と綴ってきたが、一旦ここで筆を擱きたい。

 

 

 


 
 

 

 


                  
                  
 
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