第71回:「ファイト・クラブ」

電波系フィスト・ファック・ムーヴィー


「ファイト・クラブ」(Fight Club)
1999年:アメリカ 監督:デヴィッド・フィンチャー


 最初に観たときは「そうでもないなぁ、、、」くらいの感想しか持てなかったような作品でも、何度か観ているうちに段々と好きになっていくということが間々ある。面白いことには、そういう“後からじわじわと来る”タイプの作品の方が、第一印象が良かった作品よりも、後々自分の中で“外せない一本”になることが多いような気がする。

 今ここでパッと思いつくものだと、「ブレードランナー」('82)や「シティ・オブ・ゴッド」('02)、そして今回ご紹介する「ファイト・クラブ」('99)といった作品が、私の中ではまさに“後からじわじわ来た”映画作品で、やはりいずれも今現在“外せない一本”になっている。

 そういう作品は得てして10代の頃に初めて観たものが多く、つまりは当時の無知な自分よりは、今現在の自分の方が少しばかりマシな理解力を持っている、ということにもなろうが、しかしそれ以上に、普遍的な人間生活に対する“実感”みたいなものが、ハタチを過ぎてからの方がより重みを持って自分にのしかかってくるので、映画の中に描かれるその人間生活における普遍的テーマを身をもって感じることが出来るようになった、ということが、先に挙げた理解力云々という表面的な事柄よりも、もっと本質的な部分での大きな原因になっているのではないかと思う。

 “人間生活における普遍的テーマ”なぞとずいぶん大仰にぶってしまったが、要は学生であれサラリーマンであれ専業主婦であれスポーツ選手であれ芸術家であれ政治家であれ犯罪者であれ医者であれ、その他諸々、大方の人間が「日常」という名のルーティン・ワークの中で生きている、、、という程度の意味で“普遍的”という言葉を使ったのである。

 もちろん身分の差や生活環境によって種々の違い、大小の落差があるのはもちろんだが、「24時間常に死と隣り合わせ」みたいな毎日を送っている人間なんてのは、世の中広しといえどもそうはいるもんじゃない(戦争や飢餓、あるいは個人的に何か特別な重病の身であるとなれば話は別だが)。人それぞれに平凡な「日常」があり、忙しい人は忙しい人なりに、暇な人は暇な人なりに、はたまた金持ちは金持ちなりに、貧乏人は貧乏人なりに、各々の「日常」を生きているわけである。環境的な違いはあれど、根っこの部分では皆似たようなケチくさいことで頭を悩ませていたりするものだ。

 ゲージツだのヒョーゲンだのといった世界においても、その根っこの部分で扱われているのは、常にこういった意味での“普遍性”なのではなかろうか。

 さてさて、今回ご紹介する「ファイト・クラブ」の主人公も、現代的な大量消費社会のどこにでもいる名無しの権兵衛。「個性」だの「自我」だのといった“ブンガクテキ”な存在とは程遠い月並みのルーティン・ワーカーだ。平凡な会社員である主人公の<僕>(エドワード・ノートン)はそこそこの高給取りで、高層マンションに住み、高級ブランド服と北欧デザインの家具に囲まれ、物質的には満たされた生活を送っている。しかし彼には重度の不眠症という悩みがあった。

 <僕>は精神科医にこの苦しみから逃れるために睡眠薬でも何でも処方してくれと泣きつくが、精神科医は「あんたの悩みなんて大したことない。世の中にはもっと苦しんでいる人たちがたくさんいる。癌患者の集いにでも参加してみたらどうだ」と軽くあしらわれる。<僕>は藁にもすがる思いで睾丸癌患者の集いに患者と偽って参加し、そこで彼ら癌患者たちの“本物の苦しみ”に触れ、彼らと共にそれを分かち合い、彼らと共にオイオイ泣き晴らす。するとこれが効果てきめん。数年越しの不眠症が嘘のように改善し、赤子のようにスヤスヤと眠れるようになった。

 これに味をしめた<僕>は、次から次へとこの手の重病患者たちの集い(いわゆる“自助グループ”)に患者を装って参加し、アフターファイブのほとんどをこの集いへの参加に費やし始める。彼は来る日も来る日も重病患者たちと胸を貸し合い、あっちでオイオイ、こっちでオイオイ泣きじゃくる。不眠症は治ったが、今度は完全な自助グループ中毒になったというわけだ。

 こうして、すっかり心の平穏(といってもかなり自己欺瞞的なものだが)を取り戻した<僕>であったが、ある時、自分と同じように自助グループの集いをハシゴしているマーラ(ヘレナ・ボナム=カーター)という女の存在に気づく。<僕>は自分と同じように重病患者を装って集いに参加するこの女のことが気にかかり(つまりは自分が行っている自己欺瞞的な行為を客観的に見せられたので)、集いに参加しても泣くことが出来なくなってしまう。そしてあっという間に重度の不眠症に逆戻り。<僕>は苦肉の策としてマーラとは別の曜日、または別のグループに参加するように手を打つが、再発した不眠症は悪化するばかり、、、。

 そんなある日、<僕>は出張先の飛行機の機内で、タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)という男に出会う。自家製石鹸の製造と販売を行っているというこの男は、どこか普通と違うユーモアがあり、少し危険な匂いがする。つまり<僕>のような紋切り型の人種とは全く違う男としての魅力を持っている。世の中には面白い男がいるものだと思いつつ帰宅すると、なんと高層マンションの<僕>の部屋がガス爆発で真っ黒焦げ。自慢の北欧家具も木端微塵に吹き飛んでいる。愕然とする<僕>。

 出張帰りのとんだ災難。今晩泊まるところもない。はてさて、これからどーしたものか、、、色々と悩んだあげく、<僕>は飛行機で知り合ったあの不思議な男、タイラーに連絡する。二人は街外れのバーで落ち合い、<僕>の“とんだ災難”について話し合う。自慢の北欧家具やオーディオが全てパアになってしまったことにひどく落ち込んでいる<僕>に対して、タイラーは「お前は“物”に支配されている」と言い放つ。そしてバーを出た後、駐車場でタイラーが<僕>に向かって突飛なことを言い始める。

 「俺を殴ってくれ」

 「えっ?」

 「力いっぱい、俺を殴ってくれ」

 最初は何言ってんだと取り合わない<僕>だったが、この不思議な魅力を持った男は、どうやら本気で自分を殴れと言っているらしい。<僕>は何だかわけのわからないままタイラーを殴りつける。そしてタイラーからもお返しの一発。今までに味わったことのない“リアルな”痛み。何だかよくわからないが、言葉にはできない生の実感、生きている歓びが腹の底から突き上げてくる。

 「もう一回やってくれ」

 まるで無邪気な少年たちのように殴り合うタイラーと<僕>。この日を境に、場末の廃屋でタイラーと<僕>の共同生活が始まる。北欧家具もブランド服もテレビも要らない生活。そして土曜の夜に繰り返すバーの駐車場での殴り合い。<僕>は生まれて初めて本当の“充実した生活”を手に入れた。もはや高い家賃も会社の上司も恐くない。殴り合っているときの充実感以外は何も要らない。

 しばらくすると、この二人の殴り合いを見物していた酔っ払いたちが、我も我もと殴り合いに参加し始める。そのほとんどが昼間はしがないホワイトカラーやブルーカラーとしての生活を送っている男たちだ。職場では何の役にも立たない男でも、社会的地位も名誉も関係ないただの殴り合いでは、相手をコテンパンにぶちのめすことができる。

 堅苦しい制約や重圧に屈して生きているルーティン・ワークの奴隷たちが、ここでは全てを解放し、拳ひとつで生きている歓びを味わうことができるというわけである。そしてこの“参加者”たちの数は次第に増えてゆき、殴り合いの場所をバーの地下に移した本格的な「ファイト・クラブ」が発足される。

 夜な夜な集まっては、生の歓喜を味わうために殴り合う男たち。彼らの「ファイト」に勝ち負けは関係ない。ナマの肉と肉とがぶつかり合うことで、彼らの魂は解放される。それは社会的な地位や名誉が微塵も入り込む余地のないピュアな世界。病める物質社会から解き放たれた純粋観念のみが神々しく輝き、それが血と汗になって飛び散る絶対不可侵の聖なる領域。

 この街外れのバーで始まった「ファイト・クラブ」という“現象”は飛び火に次ぐ飛び火を重ね、今やアメリカ全土にまで拡がろうとしていた。つまりは、タイラーという男の観念がひとりでに自己増殖をし始めたのである。まだまだアンダーグラウンドな存在ではあるが、ある種の“社会現象”にまで発展してしまったというわけだ。

 がしかし、これはあくまで脱物質社会を目的とした「自己破壊」行為なのである。つまるところ内輪の活動でしかない。相手が「まいった」と言うまで血まみれになって殴り合うという過激な活動内容ではあるが、それも傍から見れば<僕>が以前ハマっていた“自助グループ”と同じようなものだ。ところが、この破壊行為がいつしか「自己」ではなく「社会」そのものに向けられるようになってゆく。

 タイラーは「ファイト・クラブ」のメンバーから有志を募り、<スペース・モンキーズ>というテロ集団を結成。そして「騒乱計画」(プロジェクト・メイヘム)なる破壊工作を立案し、これを遂行する。「騒乱計画」は人命を奪うことを目的としてはいないが、しかし爆発物を使った行き過ぎた破壊活動であることに違いはない。この行き過ぎた破壊活動は当然ながら「社会」を完全に敵に回し、とうとう活動中にメンバーの一人が警官に撃たれ死亡するという惨事を招いてしまう。

 <僕>はこの行き過ぎた破壊活動を今すぐやめるべきだとタイラーに抗議するが、タイラーは「多少の犠牲はやむを得ない」と聞く耳を持とうとしない。そしてとうとう「騒乱計画」は街に立ち並ぶ金融会社の高層ビルを全て爆破し、金融パニックを引き起こそうという本格的なテロ計画にまで発展する。

 一体、このタイラーという男は何者なのか? このキチガイじみたテロ計画を阻止する手立てはあるのか? そして<僕>の運命はどうなってしまうのか? 物語はこの後、さらに思いもよらぬ展開を見せながら、大感動のラストまで一気呵成に突っ走る。

 今回、久々にこの「ファイト・クラブ」を観たのだが、やはり観る度に新たな発見があり、観る度に「いかに優れた作品か」ということを思い知らされる。
 
 ごくごく簡単に言ってしまえば、本作は一人の男が自分の弱さを乗り越えるまでを描いた実にオーソドックスな成長物語なのだが、そこに様々な社会的要素(そしてその問題定義)が毒っ気たっぷりのブラック・ユーモアと共に組み込まれ、タイラー・ダーデンという危険だが実に魅力的なカリスマと、ごくごく一般的な社会に生きる我々「愚かな大衆」の見事なまでのサンプルである名無しの<僕>とを対比させながら、「この病める現代社会(物質至上主義の社会)で自分はどう在るべきか」という問いを投げかけてくる。

 本作を初めて観たのは中学生の頃だったと思うが、ごくごく平凡なルーティン・ワークに盲目的に従事し、仕事帰りの一杯がささやかな楽しみ、、、みたいな紋切り型のオトナに自分がなるなんて夢にも思わなかったその頃の私には、この映画の<僕>を見ても何一つしっくりくるものがなく、「タイラー・ダーデンなんてただのマッチョ野郎じゃん、だっせぇ〜」くらいにしか思えなかった。

 しかし実際に自分が先述したような紋切り型のさえないオトナになってしまった今は、エドワード・ノートン演じる<僕>が、どうしてタイラー・ダーデンのような男に魅了されるのかがよくわかるし、それ以上に、目的意識のないルーティン・ワークに盲目的に従事している<僕>の姿が、どうしても自分とダブって見えてしまうのである。

 「宣伝文句に煽られて、要りもしない服や車を買わされている」

 「歴史の狭間で、生きる目標が何もない」

 「自身の人間性を主張しない奴は、腐敗していく有機物でしかない」

 、、、これらタイラー兄貴のお言葉を頂戴すると、どうしたって自分という人間が後ろめたくなってくる。10代の頃の私にとっては、こんなものはただのセリフでしかなかったが、今現在の私にとっては、ルーティン・ワーカーとしての自分の実情に当てはまり過ぎるくらい当てはまるリアルな苦言ばかりだ。

 しかしこの映画が素晴らしいのは、現代社会に対する警鐘だとかアンチテーゼだけで終わることなく、「一人の人間としてどう生きるべきか」という、これ以上はないくらいに真っ当な普遍的テーマにしっかりと帰結するところだ。本作はあまりネタバレさせたくない作品だが、はっきり言ってしまうと、最後の最後にはちゃんと「救い」が描かれている。

 「僕を信じろ、これからは全てがよくなる」

 ラストに出てくるこのセリフを言う時のエドワード・ノートンの表情は、何度見てもグッときてしまう。本作は間違いなくブラピのベスト・ワークだと私は思うが、しかしながらエドワード・ノートンも負けず劣らずイイ仕事をしている。こういう“人間の弱さ”を表現するのが上手い役者は大好きだ。





危険なカリスマ、タイラー(左)と、ボンクラ・サラリーマンの<僕>(右)。




男の殴り合いに地位も名誉も関係ねぇ!!




何の目標もなく生きているルーティン・ワーカーも、
殴り合うことで生きていることの歓びを味わうことができる。




上司にビクついてばかりいたヘナチョコ社員も、
夜毎のファイトのおかげですっかり不良社員に。




本文では書ききれませんでしたが、
このマーラという女も本作における重要なキーポイントなのであります。




カネもメイヨもメンツもギリも、みんな捨ててこ、ステテコシャンシャン!!
→ → → http://www.youtube.com/watch?v=WLNkIM7pcYE&feature=fvwrel


                                                 (2012年2月20日)


プロフィール

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ニックネーム
アンジー
性別
血液型
O型
生年月日
1984年5月2日
現住所
東京
自己紹介
政治経済スポーツ苦手。映画音楽本が好き。懐疑派の無神論者を標榜しつつも、テレビの占いなどで不安なことを言われるとかなり気にするタイプ。
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