第51回:「その男、凶暴につき」

天才たけしの挑戦状


「その男、凶暴につき」
1989年:日本 監督:北野 武


 私が意識的に映画を見始めた中学生の時分(90年代末頃)、テレビで見るビートたけしのイメージは「しゃべらない大物司会者」といった感じだった。

 ツービート全盛期の頃の雄姿はもちろんのこと、お笑い以外での多才ぶりも全然知らなかったその頃の私には、テレビの向こうでほとんど黙って座っているだけのこのおじさんが、どうしてこんなに大物扱いされているのか不思議でならなかった。

 ちょうどその頃、「HANA-BI」('98)がヴェネツィア国際映画祭でグランプリを取った後だったので、すでにレンタルされていたその作品を見てみることにした。

 「あのしゃべらないおじさんは、一体どんな映画を撮るんだろう?」

 おじさんは案の定、映画の中でも全然しゃべらなかったが、しかしテレビでは決して見ることのできない「たけし」の表現者としての感性に初めて触れ、「ああ、これだからこの人は大物なんだ」とガキながらに納得したことを憶えている。

 映画の出来がどうこうといったことは当時の私には関係なく、たけし独特の「間」で紡がれていくストイックな「暴力」と「笑い」の連続に、当時見ていた他の映画とは異質な何かを感じ、その後色々と北野映画を見るようになった(というよりも、「たけし」という存在そのものに惹かれるようになったと言った方が正しいだろう)。

 とはいえ、私は純粋な北野映画ファンではないし、全作品を見たわけでもないので、あまり知ったようなことは言えないのだが、全くの個人的な好き嫌いで言わせてもらうと、今まで見た中では、デビュー作の「その男、凶暴につき」('89)と、続く二作目の「3−4×10月」('90)が、最も「たけし」らしい作品だと私は勝手に思っている。

 「たけし」らしいなんて言うと語弊があるかもしれないが、「ソナチネ」('93)以前のまだスタイルの確立されていないこの時期の作品の方が、いわゆる“初期衝動”のようなものがあって、「たけし」という異才の本質的な部分が剥き出しになっているように思うのである(「あの夏、いちばん静かな海。」('91)は未見なので何とも言えないが)。

 どちらの作品もかなり荒削りであるので、「ソナチネ」以降の作品群に比べれば、当然、映画作品としての技術的な完成度は劣るのだが、その分、計算やテクニックでは出せない味わい深さというものを、この二作品は持っている。

 で、作品としては、どちらかと言えば私は「3−4×10月」の方が好きなので、本当はそちらをご紹介しようと思ったのだが、最近、内田裕也主演・滝田洋二郎監督の「コミック雑誌なんかいらない!」('86)という作品の中で、多量の返り血を浴びながら暴れまわるたけしを見て、「あぁ、やっぱりこの人が出てくると画面が引き締まるなぁ」と改めて感心させられたばかりということもあって、たけしが脇役にまわった「3−4×10月」よりも、完全なる主役で見せ場も多い「その男、凶暴につき」を今回はご紹介したいと思う。

 本作は、一言で言ってしまえばいわゆる“暴力刑事もの”のハードボイルド作品である。「Violent Cop」というシンプル過ぎる英題そのまんまの内容だ。

 たけし扮する暴力刑事・我妻は、麻薬売買に絡んだ殺人事件の捜査中、懇意にしている先輩刑事・岩城(平泉成)がヤクの横流しをしていることを突き止める。そしてその直後、岩城は口封じのために自殺に見せかけて殺される。殺しを命じたのは麻薬売買にからむ実業家・仁藤(岸部一徳)。実行したのはキチガイの殺し屋・清弘(白竜)。

 我妻は仁藤や清弘を捕まえるために、ほとんど犯罪に近いような掟破りの捜査を強行するが、そのことが新任の警察署長の逆鱗に触れ、警察をクビにされてしまう。

 もはや全くの無防備な一般市民になった我妻は、殺し屋・清弘に命をつけ狙われるが、大人しく殺されるようなタマではない。我妻は岩城を殺した悪党どもを自らの手で血祭りに上げるべく、密売人から手に入れた拳銃を片手に、最後の殺し合いに臨むのだった、、、。

 とまぁ、あらすじだけを聞くと凡百のハードボイルド作品といったところだが、天才たけしはこの使い古されたプロットに、どこまでもストイックかつ容赦のない「暴力」と、狂気すれすれの「笑い」をブチ込んだ。そしてそれらを独自の「間」でもって紡いでゆき、実に不思議な味わいを持った“非映画的”映画作品を作り上げたのである。

 普通、シリアスな暴力映画における「笑い」というものは、いわゆる「緊張と緩和」の落差によって生み出されるものだが、たけしの場合は「緊張」の中に唐突に「笑い」をブチ込んでくる。

 「暴力」自体も唐突でタイミングを読めないが、北野映画においては、「笑い」もまた「暴力」と同じように突発的でなかなかタイミングが読めない。というか、「暴力」と「笑い」がほぼ同線上に描かれていると言っても過言ではない。しかしそれでいて無駄な肉付けは一切なく、話の起承転結に沿って、物語は淡々と進行してゆく。

 突発的な「暴力」と「笑い」が混淆しているのに、作品全体にゴチャゴチャした感じは全くない。むしろ“虚無的”と言えるほどにスッキリしている。

 プロとしての映画製作経験のない、一芸人による映画監督デビュー作として、本作はよくぞここまでのオリジナリティーを持ち得たものである。「映画的文法を破壊する」なぞという仰々しいハッタリをかましておいて、結局は毒にも薬にもならないような駄作しか作れない手合とは訳が違う。

 全編、血と暴力にまみれてはいるが、台詞を含め、その演出にはほとんど無駄がない。完全なる“引き算の美学”だ。映画的な“お決まり”から逸脱しているのは間違いないが、その“逸らし具合”が絶妙なのである。決して「破壊」というハッタリで映画そのものをダメにしてはいない(※北野映画における「破壊」に関しては、文末にて若干の追記あり)。

 例えば、ガサ入れで逃げた男を追うシーンに、ごく一般的な昼下がりの住宅街を選ぶあたりも、実にたけしらしい“逸らし”の妙を感じさせる。

 刑事ものでは大概、この手のチェイスシーンは大都会のど真ん中か繁華街の路地裏なんかが相場だが、この作品ではそれがごくごく普通のどこにでもある住宅街なのである。干した布団を布団たたきでパンパンはたいているおばちゃんのすぐ脇を、金属バットを持った返り血まみれの凶悪犯と、それを追う刑事が走り抜ける。この絶妙な“ミスマッチ感覚”こそが、いわば「たけし流」のリアリズムなのだ。

 しかもチェイスシーンなのにスピード感を演出したりすることはなく、どこか間延びしていて、白昼夢的な雰囲気さえ漂う。そしてそこにもやはり突発的な「暴力」と「笑い」が介在する。

 「ヘタウマ」と言ってしまえばそれまでだが、明らかにこういった何とも形容しがたい独特のトーンを意識的に作ろうとしている。映画的文法を「破壊」するのではなく、その軸をちょっと「ずらす」のである。

 これをあまりシュール過ぎる演出にしてしまったのでは、見ているこちらは興ざめしてしまうが、天才たけしはこの現実と非現実のギリギリのラインを見つけるのがすこぶる上手い。これは演出力云々というよりも、皮膚感覚的な問題だと私は思う。

 「たけし」というフィルターを通すことで、何でもない日常の風景が、白昼夢的・非現実的なものに見えてくるのだ。しかもテクニックとしては時折スローモーションを用いる程度で、非現実的に見せるための作為的な演出はほとんど用いていないと言っていい(気怠い
ジャズをBGMにしているのが、唯一作為的といえば作為的か)。


 そして、たけし映画の極めつけは、なんといってもやはり「笑い」だろう。突発的な「暴力」と共に映画の随所にブチ込まれるそれらの「笑い」こそ、オーソドックスな芸を愛し、同時にレニー・ブルースのような猛毒の異端を愛する“芸人たけし”の真骨頂だ。

 例えばガサ入れに向かう車中のシーン。新人刑事が生真面目に拳銃の弾をたしかめていると、たけし扮する我妻がいたずらっぽく「撃ち合いになるかもしれないよ」と脅かす。するとそれにもう一人の刑事が乗っかる。

 「我妻さん、この前のガサ入れの時、近所の子供に当てちゃって始末書を書かされたんですよね」

 「だってあれ、子供狙ったんだもん」

 全編、あくまでシリアスな暴力映画なのだが、しかし随所にこんな会話を挟み込んでくるのだからたまらない。ツービートの残酷ギャグそのまんまだ。この毒の効き過ぎた「笑い」こそが、「たけし」が「たけし」たる所以ではなかろうか。

 たけし独自のこの「暴力」と「笑い」の狂気的な混淆ぶりは、二作目の「3−4×10月」においてさらに爆発し、どこまでが本気でどこまでが冗談なのか、益々分からなくなってくる。映画としての技術的な完成度は低いかもしれないが、「ソナチネ」以降の完成された北野映画にはない剥き出しの魅力が、この一作目・二作目では味わうことができる。

 今でこそ、北野映画に影響を受け、似たような作風を目指す映画監督も多いだろうが、'89年当時に、このようなトーンの映画を撮っていたのは、おそらく北野 武ただ一人だろう(少なくとも日本においては)。

 もちろんそれは、映画製作におけるノウハウをまだよく知らなかった結果(つまりは「ヘタウマ」)ということも大いにあろうかと思うが、しかし本職のお笑いの世界でも、常に先の先を行くような冒険者として突っ走ってきた天才である。「笑えるもんなら笑ってみろ!」「批評できるもんなら批評してみろ!」くらいの気概で、“初監督”という大役に臨んでいたのではなかろうか。

 本作の根本にあるものは紛れもない「暴力」であり「笑い」であり、また同時に「不条理」であり「狂気」でもある。それらの要素が垣根を越えてくんずほぐれつ絡み合う。

 映画を「破壊」こそしていないが、フツーの刑事もの、フツーの暴力映画、はたまたフツーの人間ドラマであることを頑なに拒否している。そしてそのフツーでない映画の行き着く先には、人間にとって最も普遍的な「死」という概念が見えてくる。

 本作に限らず、北野映画にとっては、「生きざま」よりも「死にざま」の方がより重要な存在であるように思われる。「生きることよりもまず死の方向から物事を考えてみろ」とでも言われているような気分になってくるのだ。これは“ブンガクテキ”な逆説か、はたまた底意地の悪い挑戦状か、、、天才たけしはやっぱり一筋縄ではいかない男なのだ。コマネチ。


 



(※)最初期の北野映画には映画そのものの「破壊」は見られないが、後の「みんな〜やってるか!」('95)、「TAKESHIS'」('05)、「監督・ばんざい!」('07)では、映画の「破壊」あるいは「脱構築」に挑戦しており、私の全くの個人的な意見としては、それらの「破壊」や「脱構築」が、映画作品としての斬新さや面白さに結実しているとは思えない。フェリーニやゴダールへのリスペクトは感じても、たけしらしい独自の鋭利さや斬新さは特に感じられないように私は思う。
 




 


全編こんな感じで血みどろです。


 

ヒンヤリ系でヒリヒリ系。
→ → → https://www.youtube.com/watch?v=GGQlJ-HXEu4


天才たけしの原点はコレ!! ツービートの毒ガス漫才。
→ → → http://www.youtube.com/watch?v=YLySR-7EuQM

 

(2011年10月10日)


プロフィール

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ニックネーム
アンジー
性別
血液型
O型
生年月日
1984年5月2日
現住所
東京
自己紹介
政治・経済・スポーツ苦手。映画・音楽・本が好き。懐疑派の無神論者を標榜しつつも、テレビの占いなどで不安なことを言われるとかなり気にするタイプ。
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