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近畿地方の刑場・牢屋

奈良県
柳本藩

柳本藩は、大和国式上郡・山辺郡・宇陀郡のうち1万石を領有した藩で、藩庁は中世に黒塚古墳を利用して築かれた城郭跡の一角に設置した柳本陣屋(現・奈良県天理市柳本町)で、藩家は織田氏である。
元和元年(1615)分知により柳本藩を立藩し、寛永年間(1624〜1644)になって中世、黒塚古墳を利用して築いた柳本城址に陣屋を構えた。
なお、藩庁は陣屋であるが、嘉永5年(1852年)信長以来の名族ということもあって、家格を城主格に任じられて明治維新を迎えている。
​刑場に関する確かな史料は見いだせていないが、『柳本織田家記録』の「秀親公御代之記 自貞享四年 至宝永八年」に次のような記録があるのでご紹介しておく。
​”一、柳本孫七と申もの、盗人仕
付、宝永二年七月廿五日、釜口墓ニ而打首、検使内田三郎兵衛・
 宇野新右衛門・藤堂勝右衛門

​柳本の孫七が処刑された地が藩の公設刑場か否かは不明である。
​因みに、釜口は陣屋の東方にあたる地域で、高野山真言宗の釜口山長岳寺が有名である。
牢屋に関して、『天理市埋蔵文化財調査報告書』「昭和63年、平成元年度」には、柳本陣屋跡の発掘調査結果が報告されているが、添付された嘉永7年(1854)「柳本陣屋絵図」には、陣屋地の北東、北門の東側に“牢”と表示された一角が確認できる。
ところがこの陣屋に付設する牢屋が手狭であった​ことが次の史料でわかる。
前出の『柳本織田家記録』「秀綿公御代之記 自明和三年 至文化三年」に、一揆まで至らなかったものの百姓が大勢集まり不穏な状況となったことを受けて藩が乗り出し指導者を捕縛している。
​”一、明和六
年正月十五日夜、柳本百姓共新池堤へ集り候付、呼出御吟味之上入牢也、是迄
​ ​一軒之所、此時新
牢屋建候
二軒ニ相成ル、入牢之ものとも左之通
​    武助、与助、文吾、弥平治、十三郎、庄八、又五郎
​    善太郎、新三郎、甚八、善十郎、善次郎、勘助
​ 右之もの入牢御吟味之上、被差免

同じく「秀綿公御代之記 自明和三年 至文化三年」に、御用部屋続きの部屋に置いていた箪笥を持ち出し中の銀札を盗み出したとして藩士の石原他(太)蔵が吟味を受け、”他蔵仕業ニ相違無之(中略)即日ゟ御小屋続キ北ノ端長屋ヲ杉丸太ニ而牢屋同様ニ被 仰付、其所へ押込被”と、御小人長屋の部屋を座敷牢のように作り変えて押込めたとある。
​揚屋的な施設がなかったのであろうか。
​さらに他蔵は”永牢被 仰付、依之、町会所牢屋へ被遣、足軽・小人番、食事ハ下御台所ゟ運フ”ことになったが、罪一等許されて”寛政二庚戌年十一月十九日朝六時、他蔵儀於御勘定所、永牢御免追放被仰付、足軽二人、小人一人ニ而大坂道ヒルメ峠迄送ル(後略)”となっている。
永牢と決まった罪人は町会所の牢屋に移す決まりがあったのであろうか。
​小さな藩ゆえに大きな犯罪が起きる都度、刑罰施設を急増するなどやり繰りする様子が窺える。

​余談ながら、柳本織田家の祖は、織田信長の弟で茶人として有名な織田有楽斎(織田長益)で、藩領3万石のうち、1万石を自分の隠居料とし、残りの2万石うち、1万石を四男の長政に、同じく1万石を五男の尚長にそれぞれ分与した。
このため、長政の系統は大和国芝村藩として、尚長の系統は柳本藩として存続することとなる。
この他に織田系の大名家は、信長の次男・信雄の系統が存在する。
余談であるが黒塚古墳は柳本古墳群の一つで、この古墳群には、「山の辺の道」沿いに渋谷向山古墳や行燈山古墳など200mを越す盟主的古墳が存在しており、それほど世間に注目されてはいなかったが、大和古墳調査委員会が1997年に実施した発掘・調査で、三角縁神獣鏡33面ほか34面の鏡が出土したことで、マスコミに大々的に取り上げられ、一躍もっとも有名な古墳の一つになった。

 
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